9月 162018
 
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最近、ネット上で十代向けのライトノベル表紙イラスト、主に女性キャラの描写が露出やデフォルメが扇情的すぎる、という話題について、ゾーニングや規制のあり方や是非をめぐる見解や議論が男女双方のさまざまな立場から盛り上がっているので、私も取りあえず乗っておこう。
(きっかけになったのは以下のツイートらしい)

ライトノベル表紙イラストと書店の平積み問題/まとめのまとめ

日本はぶっちぎりダントツ世界一の女性向けポルノ大国という現実。ゾーニングもしてません。

まず「実際に本屋に足を運んで実物を見てから批判しろ」という意見もあったので、とりあえず先日に最寄りの駅ビル内の大手チェーン書店に立ち寄ってみたところ、以下のような光景が目に入った。

(こちらは並んである女子向けティーンズノベル)

さて、実際にこのようなラインナップが『かいけつゾロリ』『くまのこウーフ』などの児童書や『エルサのサプライズ』『おしりたんてい』などの幼児向け絵本用の棚の、幅1メートルにも満たない通路の向かい側に並んでいたわけである。このほかに廻った別の大手書店や近所のちょっと大きめなドライブインの路面店なども配置はほぼ似たようなものであった。これらを見て「これはひどい!規制すべきだ!」と思うか、「それほどでもないじゃないか、やっぱり過剰反応だ」とか感じるか、その判断はやはり個人差があるのだろうが。

ただし、私がこれらの中身をパラパラ見た限りでは、大半はちょっとお色気やラブコメ要素が目立ったり前面に出ていることをあえて除けば、そうした性的な要素も含めて良くも悪くも(異性関係ふくめて人生経験のいまだ乏しい)十代やそこいらの若者にありがちな空想や妄想やシチュを膨らませてSFや冒険ファンタジーや学園日常ものに取り入れて仕立てたというようなものがほとんどで、さすがに以上の記事で挙げられていたり懸念されていたような、成人向けエロゲーやエロマンガやネット広告に頻出するような暴力的変態的なものはなかった。要は現在に限らずラノベというジャンルの黎明期、そしてその前身であるティーンズ小説とかジュブナイル小説、さらにそれ以前の伝奇時代ものやハードボイルド、ミステリーなどの大衆小説などにもありふれていた程度のものだ。そして、この私がほんの子供から十代そこいらだったはるか昔の80年代後半から90年代あたりからすでに、こうした未成年向けのエンタメ作品での性的描写の「過激」さと氾濫がすでに大きな社会問題の一つとして取り沙汰されていたのであり、その辺りの世相風刺がこれまた当時に賛否両論で話題になっていた『サルでも描けるまんが教室』や『ゴーマニズム宣言』などでも為されていたのである。この私自身、学生時代には山本直樹や町田ひらくなどの作品をよく読んでいたし、何より十代やそこいらの辺りからBL嗜好に目覚めていらい今に至るまでR18な薄い本をちょくちょく購入していたりするので、このような「表現の自由」の問題については正直なところあまり立派に物申せるような分際ではない。

しかし、それでも曲がりなりにも不惑を過ぎた大人の端くれとして、以上に挙げたような露出度やシチュやイラストがおのずと必然的に買い手の視界に入ってしまうという配置の店舗に、いまだ小学生の甥っ子やその友達のみを当人たちの好きに自由に向かわせることには少なからぬ懸念を抱いてしまう。さらに言えば『エルサのサプライズ』などディズニー関連の絵本が大好きな姪っ子にも以上のような半裸の幼女もしくは幼女同然の容姿の女性の横に「理想の娘」とかヒロインとかいうキャッチコピーが添えられているような図像をまだ記憶させたくはない。小学生も中学年に差し掛かれば当然、小説でもマンガでも親や教師が勧めて与えるようなものばかりでなく自分の小遣いで自分で足を運んで自分自身で選んで買いたいと思うだろうし、親のほうは親なればこそ、子供自身の意思や感情をなるべく自由に尊重したいと考える。しかし同様に、その子供たちの好奇心や感受性をより善く「生産的」な方向に伸ばしてやりたい、傷つけたり歪めたりするような事象からは極力遠ざけたい、というのも否定すべきでない親心であり、そしてほんらい持つべき大人としての良心だろう。それらを踏まえれば、こうした状況において子供たちの買い物のたびにわざわざ親が同伴したり、例えば以下のような説明やフォローを子供が咀嚼できるようなやり方で逐一繰り返さなければならないのは親たちにとっても少なからぬ労力が求められるし、何より当の子供たちにとっても鬱陶しい話ではないだろうか。ただ、これらの類の作品を児童書の棚からもう少し引き離して成人寄りのエンタメ小説かサブカルチャーよりに配置を換えるだけのゾーニングで、子供たちの行動の自由や精神衛生は確保され親たちの不安は払拭され、当のラノベ読者たちはより気兼ねなく目当ての作品を手に取ることができるのみならず他のジャンルに対する興味も広がるだろうし、誰にとっても問題はほぼ解決できるはずなのに。

ただでさえ小中学校そして高校などにおいてまともな性教育が為されていない現状で、いまだ判断力や自制心に乏しくしかし感受性や好奇心の強い年頃の子供たちに対して、他者とりわけ女性の身体がその人自身の自律した思考や精神、魂の宿るものという以上に、周囲の有象無象の他者とりわけ男性の欲情(それも一方的で無節操な)を喚起しそれに応えうるものという要素が優先された描写をされている、少なくともそのような印象を目にした者に植え付けかねないような表現を無防備に視界に置いてしまうのは、親としての見解のみならず社会の構成員としての大人として懸念すべきことで、そしてそれは当の表現を創り出したり売り出したりする側の人間がより常に心がけるべきことだろう。もちろん、現在槍玉に挙がっているようなラノベでも実際にストーリーを追っていけば、問題の表紙に描かれているようなキャラも確かにその世界を構成する人間のひとりとして相応の背景や感情の動きが十分に描写されていることと思う。しかしそれこそ「くまのこウーフ」や「かいけつゾロリ」を読んでいるような年代の子供たちがそうした(表紙の)ラノベを実際に手に取って内容を確認したうえで、そのストーリーに描かれた思春期以上の男女の性愛の機微や煩悩の有り様を正確に理解したうえで受容できるような知的精神的なレベルには達していないと思うのだ。

やはり現実としてビジュアル的な表現の与える印象が先に目に焼き付いてしまうものだし、そのビジュアル表現がどうしても作り手およびターゲットたる読者のそれこそ無防備な欲望があからさまに投影され無自覚にダダ漏れになってしまっているような代物である以上、その製造元そして販売元に対して相応の自重と制限を求めるのは当然の権利であり、それは決して「表現の自由」とを否定したり排除するようなものではない。確かに無菌室に閉じ込めきりで子供を育てるわけにはいかないし育ててもいけないが、かといって無自覚に病原菌やウイルスを拡散してしまう存在や場所に対しては免疫力が弱く摂取ワクチンの抗体もできていない子供は極力近づけないようにしたい、という判断以上でも以下でもないのだ。むろん、その病原菌の保菌者や菌そのものが倫理的な悪であるわけがないが、やはり周囲とりわけ子供たちの安全と健康への配慮として相応の処置を行う必要が出てくるわけだ。

これらの問題をめぐって、苦言や批判を行い一定のゾーニングを求める人々とりわけ女性に対して「表現の自由」の侵害だ、潔癖主義だ、フェミやサヨクのヒステリーだ、というような反発がとりわけ男性側から少なからず出ているわけだが、これらについては、主に女性にとってのレディコミやBLなどの性的な創作物がおおむね純然たる嗜好品なのに対し男性にとってのそれらが下着や生理用品のような実用品とまではいかなくとも、それこそ女性用のちょっとセクシーでファンシーなランジェリー程度以上の「嗜好もおおいに含まれているが基本は実用品」という意識であり、現実にその通りだからではないか。ちょうど先日に「ラノベの表紙やエロ本を排除しろというなら、女性向け下着売り場の派手な下着やマネキンも排除してほしい」というツイートが炎上していたが、これなどはこうした男女の性衝動のあり方とそこから生じる埋めがたい感覚、認識の齟齬が元凶だろう。たしかに、女性が生活必需品である下着そのものや、それらに多少の彩りや華やかさを求めることに猥褻な要素やまなざしを見い出されたり、購入や使用のたびに後ろめたい気持ちを負わされることが少なからず不快であり身体や性の権利の侵害と感じるのと同様に、男性にとっても否応なしに体内に生産され溜まっていく精子を放出するという一連の生理的行為に対して罪悪感を抱かされたり拒絶や排除の対象とされるのは実際に辛いのだろう。

しかし、いかんせん他者の肉体というのは単にフリルやレースのついた小さな布製品ではなく、れっきとした人格を持つ魂の容れ物である。もちろん本来は値段を付けて客寄せのためにショーケースに陳列されるようなものでは断じてないわけだ。もっとも、現実にはラノベの表紙どころではなく一般の雑誌のグラビアなどはおろか、そのまま生身の肉体が大っぴらに(性的に)好き放題に品定めされ消費され続けているわけだが、それでもやはり男女問わず「自分が生理的に反応し欲情して強烈に求めてしまうその対象は、まずは兎にも角にもれっきとした尊重すべき人格と自我を持つ存在だ」という認識だけはずっと個人が、そして社会が持ち続けるべきであり、なにより将来の自立した個人そして社会の構成員である子供たちにはまず(それこそ抑えがたい性衝動が本格的に始動する前に)徹底して植え付けておかなければならないだろう。

男女の身体そして性的な営みとそれにまつわる事象というのは社会の維持のために必須な行為であると同時にきわめて個人的私的な快楽、娯楽という要素がそれ以上に大であり、前者の要素は後者に影をひそめがちである。しかし、それが社会のため民族や一族のための義務であれ、自身の衝動や快楽の結果であれ、それらは現に存在し続ける子供たち、そしてかつての子供たちであり赤子であったわれわれ大人の男女の存在意義と存在それ自体に関わるものだ。だからこそ、その基である性的な事象そして性そのものは適切に用い取り扱うべきだし、その責任は否応なしにれっきとした大人であり社会の構成員である我々すべてが否応なしに負っているのである。

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