7月 302018
 
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杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)

「LGBTは生産性ない」主張の自民・杉田水脈議員、準強姦被害者への「落ち度」発言が物議

自民党所属の国会議員・杉田水脈の『新潮45』への寄稿がすでに大問題となり、先日に東京は永田町の自民党本部前をはじめ各地で大規模なデモが行われたのは記憶に新しいところだ。もちろん最も問題視され非難されているのは「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」という下り、『生産性』というキーワードだが、私が件の雑誌の当の寄稿を一読してショックを受け腹立たしく思ったのが以下の下りである。

普通に恋愛して結婚出来る人まで、『これ(同性愛)でいいんだ』と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

常識』や『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

生来の性的指向、属性のひとつでありそのうちの少数派という以上でも以下でもないLGBTであることを『常識』に反する『普通』ではない存在であり「不幸」と決めつけていること自体が「差別」感情以外のなにものでもないのだが、一方で「LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます」とか同じ文章で宣っている矛盾に気づかない無自覚っぷり、そしてこうした無自覚なしかし確固たる差別意識が前提になっているため文章内がこの手の矛盾だらけでツッコミが追いつかないほどだ。そもそもこの寄稿、当の雑誌の特集である大手メディア批判の一環として書かれたもので、そのメディアのLGBT問題の報道姿勢を批判するというのが本来の論旨らしいが、その報道の具体例を挙げて分析し指摘していくわけでもなく、ただその建前にかこつけて持論を吹聴しているだけである。だいたい生来のセクシャリティとしての同性愛と思春期の閉鎖的コミュニティにおけるシスターorブラザーフッドや近代以前の男色のような(身分制度や家制度を背景としたうえでの)風俗や風習などと混同して「一時の気の迷い」や感染病、ましてBLや百合のごとき趣味嗜好と同然の認識や扱いを平然としている時点で同性愛ふくめたLGBTへの認識が致命的に欠落しているわけで、生産性がどうこうという部分を差し引いても、いやそういう部分も含めてひとえに当人のまったくのこのLGBTという存在とその諸問題に対する無知無関心、それを元凶とする偏見と蔑視こそが、まさしくこの文章そのものの動機であり、その最も明白な象徴なのだ。

たしかに、知的身体的な「障碍」や疾病、老衰などと異なり、LGBTふくめたセクシュアリティの相違というのはとりわけ個人の相違や属人的な要素の大きいセンシティヴなもので、現状としては「一橋大アウティング事件」などにも見られるようにそれぞれの「普通」の異性愛者たちにとっては感覚的な理解や受容がなかなか難しい。この私自身まったくの異性愛者であり心身ともにまったくの女性であるからして、同性(のみ)にのっぴきならない性愛を抱いてしまったり自分の認識する性と真逆な肉体を持ってしまった人々の苦悩や苦痛、不自由ぶりなどは完全には理解できないし想像もしきれないだろう。また、同性への性的感情や自分と異なる性別の肉体を持った人とのトイレや浴場などの共有という状況に対して、抵抗感をまったく持たずに過ごすことも、正直なところ難しいものがある。

だからこそ、そうした言わば「生理的」そして心理的な抵抗感や不安、恐怖感を完全に無くすまではいかずとも少なからず軽減できるのがそれらLGBTなどに関する知識と、なにより当の本人たちとの忌憚ないコミュニケーションであり、その機会にほかならないのだ。「生理的」な嫌悪や恐怖というものを制御し抑えられるのはひとえに対象に対する知識と理解であり、それを持ち有効に使えることがまさに理性ある人間の「生産性」である。そうして互いの抵抗感や偏見をより減らしていくことで互いのコミュニケーションを円滑にしLGBTの社会生活や活動をより広く有効なものとして、まさに彼ら彼女らの「生産性」を最大限に引き出していくことが、それこそLGBTふくめた社会そして国家を構成する国民たちの代表者たる議員たちの役目だろう。

しかし、その意義や機会そのものを「普通」や「常識」の名のもとに真っ向から軽んじ否定し、「普通」になれない「常識」的に振る舞えない存在として「普通」である人々からは教育も支援も後回しにされてもしかたのない存在、一段劣った存在と見なして断言して顧みないことは、やはりさんざん指摘されているとおりにナチスに繫がる排除と抹殺の論理であり、もっとも悪質であからさまな差別の表明と肯定であり、端的に言えば公人それも代議士としての義務の放棄であり、いち公人そして大人としての怠惰である。だいたい、LGBTに限らず公教育の場で「お前らの存在や立場よりもっと優先すべきことがある」と「お前らに割く時間と金は後回し」というようなことを「普通」の「常識的」な立派な大人たち、まして実の母親などから笑いながらあっさり言い捨てられてしまったら、ただでさえ自身のアイデンティティ(その大元になる性自認)すら不安定な状況の子供たちにとっては、それ自体が自殺の動機になりうるだろう。手前がそのように見做している人々と手前の(慈悲や温情から)「友達」になって気にせず「普通」に付き合うなんてことはちっともそれらの埋め合わせにはならない。ヒトラーだって画家時代のユダヤ人の旧友や母親や自分を診てくれた医者には「普通」のアーリア人と同じように接していたのだから。社会における国民の優先順位を国会議員という立場で手前勝手に、手前にとって「普通」かどうかなどで判断して決めてしまうことの危険性が批判されているのだ。

(問題になった発言は11:30くらいから。しかし、ご当人のこのご高説そのものがまさにLGBTについての教育が必須であることの強力な理由になっている)

「生産性あるものとないものを同列に扱うのは無理がある」 自民・杉田水脈議員がこれまで主張してきたこと

もっとも、この手の代議士の存在やその態度を陰に陽に支持しているのはやはり「普通」の「常識的」な人なのだろう。具体的に言えば心身ともに完全な生殖能力をそなえた男性か女性に生まれ、順当に義務教育を修了して新卒で就職しあるいは家業を継ぎ、安定した収入を得て生殖が可能な年齢のうちに健康な異性と結婚して家庭を築き子供を生み育てている人々だろう。しかし、現状としてLGBTなどのマイノリティーはこれらの「普通」の生活が元から困難な状態にある。いくら愛し合っていて長年生活を共にしていても事実婚すら成立しない同居している他人どうしのままでは「普通」の家族にすらなれないし、共用のトイレも使えない、自分の望む性に合った制服も服装も着られないというのでは「普通」の学生生活や就職もままならないわけだ。そんな状況の彼ら彼女らから「常識」や「普通」を盾にそうした「普通」の生活への手段や選択肢を元から与えず、「普通」のコミュニティやヒエラルキーの埒外に追いやり二丁目界隈や色物芸能人の領域にのみ存在意義をようやく許されるような立場にして心身ともにフリークスに仕立てておきながら、その上で「普通」の立場からその「常識」外であることそのものを揶揄し蔑視し、それを理由として「普通」の幸福や安定を奪うやり口というのはそれこそ「普通」に理不尽だし、しかし古今東西のメインストリームの側がLGBTのみならずマイノリティそしてそれ以外の被支配側に使ってきた典型的な権力と立場の保持の手法である。

ただし、一般の(私もふくめた)「普通」の人々には、杉田議員と同様に大した悪意があるわけではない。「私たちは『普通』の幸せを守りたいだけ」「どうしてただ『普通』になるだけの意思も能力も無い奴らのためにこちらが割を食わなくちゃならないんだ?」というくらいのものだ。しかし、そういう「普通」の善良で健全で勤勉なドイツ帝国民がナチスを支持した結果、取り返しのつかない惨状を自国とそれ以外の世界にももたらしてしまったのだ。けっきょく『普通』と「それ以外」というような分断の在り方そのものが元凶なのである。「普通」あるいは「普通じゃない」などという評価や在り方というのは自分以外のコミュニティ内の他者をもっぱら比較対象にしたものだ。しかし当然ながらそれはその比較する他者、構成されるコミュニティの性質や属性によって変化しうる。弱視だった麻原彰晃こと松本智津夫は社会一般においては障碍者であり弱者であったが、全盲者が大半の盲学校では強者として横暴に振る舞っていたという。そして、文化大革命においては造反有理こそが「常識」であり毛沢東主席や四人組の意に反するものは「普通」ではないとして紅衛兵に虐殺され、クメール・ルージュでは眼鏡を掛けた人間は「普通」ではあり得ず抹殺の対象であり、スターリンに至っては「自分に反逆しない」人間以外は「普通」ではなかった。しかし、彼らはみな口を揃えてこう言うに違いない。「俺たちは『普通』に真面目に生きてきた人間だ」「俺は『普通』の生活を守りたかっただけだ」……大げさでなく、権力者もしくはそれを支持する人々が「普通」の内実を規定したうえで、「普通」であること以外を排除したり下に見做したりする論理の単純な帰結である。

だからこそ、件の杉田議員そして自民党への抗議にあたってほとんどの人々が「多様性」を主張し対峙させてきたわけである。「普通」にせよ「生産性」にせよ、国や社会の成員の価値や重要度、その基準を陰に陽に一元化し優先順位を付けたり選別や分断することに、国政を担う立場でありながらその権力性暴力性にまったくの無自覚であるならば疑いようもなく愚劣愚昧であるし、万が一それらを承知の上での一連の発言ならば悪辣きわまりない危険な所業である。そして多様性を目指すということは、そのコミュニティの人々がそれぞれに対する評価軸や選択肢を増やし提示しあい、それぞれの評価軸や選択を尊重し、なにより各個人がそれぞれに確固とした評価軸や選択を持ちつづけることだろう。したがって、そのことを否定し、おのれの権力や立場から抑圧するような態度を取る人間にはそれこそ真っ向から異議を唱えなければならない。そして、さらに付け加えれば、おのれ自身からの確固たる評価軸も価値観も持たず、国会議員という地位や党の威光や現首相を筆頭とする有力者の庇護やさらには女という立場に縋っていながら、「普通」を標榜し「普通」や「常識」を錦の御旗としてなんの覚悟も信念もなく振り回しておのれの保身や自己顕示に走るような輩については、今後も徹底的に否定し拒絶し、決してああまでには落ちぶれないようにという反面教師としていく所存である。

 

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