8月 212016
 
燃える十字架
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先日の「一橋大同性愛学生転落死事件」に関してはネット上においても、発端となった亡くなった「Aくん」とそのAくんに告白されて「アウティング」をやらかしてしまった「Zくん」ほか同級生とのそれぞれの側からの意見が多数出ているが、この私としては先日も書いたとおりに、やはりこの事件はAくんとZくんはじめ同級生たちとの私的な友情、コミュニケーション上のモラルやデリカシー問題であり「同性愛(差別)」のファクターはあくまで副次的なもので、したがって裁判などで公的な断罪、制裁を原告の学生や大学側に課すのはやり過ぎなのではないか、と考えてしまう。結局どう見ても「どんな親しい相手でも自分の人生に関わるほどの重大な『秘密』をやみくもに打ち明けるべきではない」「親しい仲間うちでも各人のプライベートに関わる事柄をうかつに漏らしてはいけない」という教訓以上のものではなく、たまたまその『秘密』が「同性愛」であり、その結果が不幸にも当事者の「自殺」という最悪の事態にまでなってしまった、ということだ。

さらに言わせてもらえば、手酷い失恋をし、そして「親友」と信じていた相手に酷く裏切られ、あるいは偏見やその場の雰囲気に流されたりで嫌がらせや冷遇を受ける、という事例は古今東西至るところに存在していて、しかしそうした仕打ちを受けた人がすべて相手や周囲を公的に訴えることはしないし、ましてそうそう死を選ぶことはしないし、できないのだ。それを言い方は悪いが、本来は自分たちの先天的な属性以上のものではない事柄をもっぱら「武器」として、本来は別個のはずの自分たちの目的やフィールドに利用するのは正直、あまりフェアでないと感じてしまう。

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たしかにAくんにとってはZくんは、本来あってはいけない感情を抱き打ち明けずにはいられないほどの愛情の対象であり、それが遂げられなかったとしても一番の親友としてその先もずっと信頼し付き合っていきたいほどの存在だったのだろう。だからこそ、そのもっとも大事な感情であり「秘密」を思い切って告白したというのに、まさにその相手にその大切な想いと秘密を漏らされてしまったことを裏切りと感じ絶望したのだろう。この人なればと信頼してあえて見せ、そして預けた秘密の宝物を無下に晒され踏みにじられたようなものだったのだろう。

しかし、いちどZくんの立場にとって考えてみれば、これらは今の今まで気の置けない友人の一人と思っていた相手から、およそ自分のこれまで生きて培ってきた常識からはまったく想像を絶し到底受け入れられないような感情と、それこそすこぶる仲が良く理解のあるらしい当人の家族にすら言えないほどに重大な秘密を、とつぜん同時に否応なしに、それに対する知識や心構えもまったくないままに抱え込まされてしまった、という事態である。それでもその時の彼の対応、 『恋愛感情に応えることはできないが、これからも友達でいよう』という言葉はそれなりに彼の本心で望みであったと思われ、その場しのぎの出まかせとばかりは一概には決めつけられない。

しかし、同性異性問わず恋愛感情というのはそう簡単に割り切れるものではない。Aくんの中ではすでに決着をつけたつもりでも、やはり抑えきれない慕情のようなものが無意識のうちにその言動で仲間内ことにZくんの前では滲み出してしまっていたのかもしれない。なにより、AくんにとってZくんはその時点で自分の生涯最大の「秘密」をゆいいつ共有する、ある意味ただの恋人や親友以上に「特別」な存在になってしまった。それらがZくんに対する有形無形のプレッシャーになっていたのかもしれない。片やZくんにとってもずっと友人と信じていた同性から長らく「性愛」の対象として見られていたという衝撃はひとり耐えて秘めておくにはあまりに大きすぎたのかもしれない。なにより、AくんのみならずZくんもお互い二人だけの関係のみの中で生きていたわけではなく、Zくんにとっての友人もとうぜん彼だけではなかったのだ。そして、ある人に対する誠実を守ることは、別のある人に対する不誠実になってしまう、という事態はありうる。それがある種の「秘密」がらみならなおのことだ。

べにウサ提督 @usdk 13日前
仲間コミュニティ内で告られて断って、気まずいから接触を減らす方向に動くと、コミュニティの他の仲間内から「なんであいつを避けてるの?」って聞かれるし、事情をだんまりのままだと妙な正義感も相まって追求も激しくなるし……なんて、当事者にせよ傍観者にせよ経験したことのある人は少なくないでしょう。「ちょっと喧嘩してさ」みたいにごまかしても、和解させようと周りが動いたりしてね……集団の和を保とうとする力って怖い。

一橋大ゲイ男子学生転落死、事件の反響、論点まとめ – Togetterまとめ コメント欄より

たしかに、Zくんの対応はその後の経過をみてもあまりにも軽率で配慮に欠けたものであったのは否めない。ただし「アウティング」後のAくんに対するZくんおよび級友たちの対応というのは、Zくんに一度ややとげとげしく見える言動があった程度で、他に目立ったハラスメントや暴言があったわけではないようだし(もしあからさまな嫌がらせがあったら、まずそちらの案件で訴えを起こしているだろう)むしろAくんにアドバイスを試みる友人もいたようだ(その「アドバイス」の内容が著しくズレていて逆効果だったのも事実だが)。葬式にも出席せずまともな謝罪がないというのが事実ならさすがに薄情というか不甲斐なさすぎだが、Zくんにしてみれば自分の姿を見ただけで発作を起こしパニック状態になる相手に対しては、謝罪とかいう以前にろくに会話はおろか近づくことも不可能な状況で、そんな彼らを目の当たりにした級友たちもただただ、どう接してフォローしたらいいか困惑していた、というのが実情ではないだろうか。お互いに「俺(たち)がそんなに酷いというのか?」「俺の方に大学を辞めろとでもいうのか……」とかいうような被害者意識のようなものが肥大化していくうちに、冷静に和解の糸口も探れないままに破綻をきたし、そのトラウマやわだかまりを抱えたまま現在に至ってしまった……というところかもしれない。

大学の対応にしても、相談室の職員が性同一性障害と同性愛を混同している雑な認識などはたしかに問題としても、本来のAくんの状況というのは元々はZくんに対するきわめて私的な感情の軋轢からきているもので、講義中にトラブルが起きたり具体的なハラスメントが発生していない以上は専門の医療施設やその分野に詳しいプロを紹介する以上のことはできなかっただろう。もっと早いうちに休学を勧めていればよかったのだが、本人が授業にどうしても出たい、というものを無理に止める権限もなかったと思われる。そもそも、Aくんのメンタルと友人関係の問題というのはある程度同性愛に対する事柄を周知しておかねば解決のしようがないのに、同性愛であることを公表したことそのものが重大犯罪のように糾弾されるというのでは対策の取りようもない、というのが正直なところではないのか。

さらに正直に言えば、遺族そして生前から相談を受けていたという担当弁護士にとっては結果としてAくんを「救えなかった」自責の念を代わりに、Zくんと大学を「断罪」しおおせることで転化しようとしているきらいが無きにしも非ずなのだ。担当弁護士はAくんとよく似通った経歴でもあり、到底冷静なかつ公平な判断ができる立場とは思えない。酷な言い方になるが、この件に限ってはAくんを含めた原告の側がことごとく戦略を誤った、やり方の順番を取り違えていたと思う。AくんはいきなりZくんというヘテロセクシャルの個人相手に初告白と初カミングアウトのコンボをかます前に、まずはそれとなく周囲に同性愛への理解や興味を求めたり少しずつ素性をほのめかしておくとか、大学外に同じ悩みを持つ同世代の人たちを探して交流を深めておくとか(インターネット上で匿名でのやり取りでも良いし、そんなサイトやSNSはいくらでも見つけられるだろう)しておけば、あれほど追い詰められることはなかったはずだ。

家族や弁護士にしてもその苦しみと後悔の大きさは理解できるが、それでも「世間の標準的な価値観に対する問いかけ」を本当にしたいというなら、まずZくんという一学生や大学を性急にターゲット、言い方は悪いが「見せしめ」にする前に、社会やそれこそ当の学生たちに対して「こういう辛い出来事があって、彼はこのように悩んで苦しんでいた」と冷静に背景を説明したうえで、大学にも同性愛へのもっと精確な理解や、学生のメンタルに対するより適切なフォロー体制を地道に訴え求めていく、というやり方のほうが、それこそ当事者を含めて周囲や社会からの共感や理解をよほど得やすかったはずだ。

ただし、性同一性障害と同性愛をもちろん一括りにできないように「同性愛」の中にも多様な嗜好や見解が存在し、当の同性愛者のスタンスも個々さまざまである。「同性愛は別に異常でも恥ずかしいことでもない、だから隠すことなく堂々と生きていくべき」という人もいれば「現実に偏見や差別がはびこっているかぎりは、やはり同じ信頼できる人たち以外には隠し通して平穏に暮らしていきたい」という人もいるわけだ。つまり、同性愛者どうしでも統一した見解やスタンスを取ることが不可能な以上、社会や個人の側もそれぞれの同性愛者の個々のケースにおける対応を迫られるわけである。

ただ、もしも誰かひとりに対して、いずれの選択であれ決して軽くない十字架をともに背負わせることになるなら、あえて自分が選択してみずからの意志で信じたその相手から、たとえ手ひどく裏切られ逃げられ、そして最悪の場合自分ひとり見捨てられ周囲からも見放されることになったとしても、その結果も含めて受け入れて耐えていく、というくらいの覚悟は必要だと思う。同性愛に限らず、世界の有象無象の中からただ一人を選び出して自分の想いもエゴも一切をさらけ出したうえで信じる、そして愛する、というのはそれぐらいのリスクを要することだと思う。それこそ生身の相手をアイドルに仕立てて一方的に憧れたり「恋に恋する」十代やそこいらのガキンちょや小娘ではないというのなら。

ちなみに、先日ネット上で話題になっていた1968年のメキシコシティオリンピックにおける黒人メダリスト2人による人種差別抗議行動を支持してともに壇上に立ったオーストラリアの銀メダリスト・ピーター・ノーマンに関する記事(オリンピックでの「政治的」主張を行うことに対する是非はとりあえずおいておく)。

48年前のオリンピック、ある男性の勇気ある行為が彼の人生をめちゃくちゃにした。 48年前のオリンピック、ある男性の勇気ある行為が彼の人生をめちゃくちゃにした。

彼の名前は、ピーター・ノーマン。オーストラリア史上最速の短距離陸上競技選手で、この写真が撮られたときは世界で2番目に足の速い選手でした。スミスと カーロスは、示威行為を行なったことで、その後長い間アメリカスポーツ界から事実上追放され、批判に晒されました。新聞などのメディアにも非難・中傷され、彼らのもとには殺害を予告する脅迫文が何通も届けられたといいます。しかし、多くの人に知られることがなかったのは、ピーター・ノーマンも世界のスミスとカーロスの両選手の意図に共鳴して2人の隣に立っていたということです。そして彼もまた、その報いを受けていたのです。(中略)

オーストラリアでは、ノーマンは歴史から抹消されたかのような扱いを受けました。1972年のミュンヘン・オリンピックでも、選抜で出場資格を得たにもか かわらず、オリンピックのオーストラリア代表から除外され、ノーマンはスポーツ界を引退。その後は、体育の教師や肉屋などの職を転々としていたそうです。 白人中心のオーストラリア社会でノーマンは、あの事件がきっかけで、家族ともども疎外されてしまったのです。その後、怪我により壊疽も患い、除け者にされ、無視された存在となった元アスリートは、アルコール中毒とうつ病に苦しみました。ジョン・カーロスはノーマンのことをこう言います。「ピーターはたっ た一人で、国全体に立ち向かって戦っていたんだ」

以上の記事にもあるとおり、自らの偏見を乗り越えて「差別」を受けている人々を個人の意志でもって受け入れ公に支持する、というだけでも、これほどまでの信念、勇気を持ちそして人生そのものの犠牲を覚悟しなければならない、という局面はありうるということだ。それでも、このピーター・ノーマンがあえてこの行動を選択し、生涯を掛けてその選択を貫いたのは、他ならぬ当のトミー・スミスとジョン・カーロスが自らがまず共にその人生を掛け信念に殉じ戦う決意を見せていたからに他ならない。

とにかくいずれにせよ、他人を信じるとか、おのれの権利や信念を世界に訴え変えていくというのは尋常でない覚悟と心身の強靱さを要するもので、そこらの平凡な輩がひとり安易な同情や希望でまっとうできるようなものではないということだ。したがって、例の事件に関しても外野の有象無象に対して言えることは「このピーター・ノーマンと同じ立場に立たされて同じ行動が取れる人間、そしてそのピーター・ノーマンを明らかに支持し守れると断言できる人間だけが、例のZくんやその同級生たちに石を投げなさい」ということだ。

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