2月 192018
 
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※該当作品のネタバレ含みます。

赤塚先生お気に入り『おそ松くん』2「イヤミはひとり風の中」

先日放映された『おそ松さん』2期18話『イヤミはひとり風の中』、ご存じのとおり原作である『おそ松くん』の同名のエピソードが作者・赤塚不二夫本人もお気に入りの一つに挙げているほどの有名な傑作であることもあって期待以上に不安のほうが大きかったのだが、果たして結果は、単なるノスタルジックな感動話に留まらない、制作陣の原作への熱意溢れるリスペクトが細部まで感じられる素晴らしいものであった。しかもある面においては原作を超える傑作にまでなったとまでも言えそうなのだ。

その理由となる要素としては「時代背景」「チビ太のキャラクターと役割」「イヤミの住む町(長屋)の人々の活躍」といういずれも原作からの改変および追加を行ったところである。原作『おそ松くん』でのこのエピソードの舞台は髷を結った武士や町人が登場する江戸時代と思しき頃の貧乏長屋だが、今回の『おそ松さん』では敗戦からようやく復興し高度経済成長期に差し掛かったあたりの昭和30年代の下町である。この設定が、原作者の赤塚不二夫がマンガ家としてのキャリアを築きつつあった時代によることのリスペクトというのみに留まらず、このアニメ18話そして『おそ松さん』そのものに通底するテーマに深く繫がっているのである。

この『おそ松さん』18話において、イヤミと対照的なキャラクターで彼に対抗する役回りを演じるチビ太であるが、前半に裕福さと権力を嵩に着てイヤミを陥れ出し抜こうとするところは原作とほぼ同じだが原作の生まれながらの我が儘な若殿ではなく、かつてはおそらくイヤミたちと同じく決して裕福ではない「ハラペコ町」の住人であったがおそらく戦後の混乱に乗じて成り上がったアウトローの成功者として描かれている。この設定によって、「この町の英雄」を名乗り舎弟ども(六つ子)を引きつれて「凱旋」しては、原作と同じく豪華な料理を路上に広げて住人たちに見せびらかし挑発してその憤りを買い、これまた原作と同じく地べたに落とした料理を嬉々として平らげてみせるイヤミを嘲笑するチビ太の行動は、しかし(原作での若殿のような)単なる自らの地位と富を面白半分に誇り貧乏人を笑いものにしたがるという以上の背景を感じさせる。つまり、おそらくすでに都心に基盤を築いているはずの彼が、わざわざ自分の生まれ育った町に出向いてかくのごとき(いっけん無益な)パフォーマンスを行うのは、かつての町の住人たち同様の「みじめな貧乏人」であったおのれの過去の否定とその過去への復讐の儀式であり、とりわけ住人たちの中でもまったく働こうとしないどころか、つつましくも堅実に汗を流して働いて暮らしている住人たちから店の商品などを当たり前のようにくすねて腹を満たしているイヤミなどは、まさに自らの努力と才覚で財産を手に入れた「成功者」であるチビ太から見ればもっとも軽蔑すべき人間でありその象徴である。しかし、ベクトルはまったく異なるけれども、住人たちとはまったく相容れないどころかむしろ彼らがもっとも唾棄すべき手段でもって自らの欲望を満たして生きている嫌われ者、という点においてチビ太はイヤミと共通する存在であり、だからこそ、単なるイヤミの敵役や引き立て役という以上の、テーマの上でももう一つの重要な主軸になり得るのである。

そして、原作のとおりにイヤミは盲目の花売りの少女・菊と出会うのだが、この菊が失明し両親を喪った理由にはおそらく東京大空襲によるものであることが示唆されている(この場面を一発で表現して分からせてしまう演出は上手い)。この設定によって菊の不幸な境遇と体験、そして孤独がイヤミひとりのみならず、その時点で同じく同じようにその場所(東京の下町)と時代(戦中戦後)を生きて経験している町の人々、そしてチビ太などとも多かれ少なかれ共有しうるものであることが示唆される。そして、以後のイヤミの行動が菊というひとりの不幸な少女の救済というのみならず、その世界によって人生を損なわれ奪われ孤独に追いやられた人間たちの共鳴と闘いという要素を帯びてくる。

そして、菊の眼の治療のために一念発起したイヤミが賞金稼ぎのためにチビ太の主催するプロレス興行に挑んだとき、勝利しかけたイヤミにチビ太が辛子を投げつけて妨害する場面はこれまた原作と同じであるが、この話でのチビ太の行動には単なる菊への横恋慕というのみならず、イヤミ個人への嫉妬とその有り様への敵意という要素がより強く加わっている。つまりこの場においてイヤミが勝利して大金を手に入れ「幸せ」になってしまえば、イヤミのような「貧乏人」の存在と生き方を肯定することになってしまうし、それはまさにそのような「貧乏人」であったおのれの過去を否定して成り上がったおのれの敗北に繋がりかねないからである。

しかし、そのプロレスでの敗北を経て菊の救済の決意を新たにし、これまでの生き方を改めて「まとも」に働くようになったイヤミに町の人々が感心する一方、チビ太はイヤミに対抗するため、大金を菊に差し出して治療を申し出るのだが菊は拒絶する。ここまでは原作と同じだが、これから先のチビ太の判断と行動が原作からの最大の相違である。チビ太は菊のその決意と信念から、イヤミの行為が単なる同情や見栄や下心ではなく、目の前の少女・菊と同じくする決意と信念からのものであること、そしてその信念と決意が、ベクトルは違えどその根底にあるものがおのれ自身のそれとも相通じるものであることを察したのである。つまり、菊の望みは単に自分の視力の回復ということではなく、その過程を通じた世界への闘いとそのための力を獲得することであり、したがってその手段は正当な努力によるものでなければならず、断じて世界の権力の側である存在から温情で「恵まれる」ものであってはならないのだ(この辺りは原作と同じ)。そしてイヤミは彼女にとっては単なる庇護者ではなく、その力をともに得るための共闘者なのである。これをもって、チビ太はイヤミを原作のように菊を奪い合うライバルに終始するのではなく、菊という存在を通じてベクトルは違えどおのれとも相通じる信念と決意を持った同志として認めるのである。

そして、ついに過労により倒れたうえ、万事休したイヤミの窮状を舎弟ども(六つ子)から知らされたチビ太は、舎弟ども(六つ子)を通じてわざと自分から「強盗」させるという形でイヤミを援助しようと自作自演を目論む。果たしてそのチビ太たちの行為がイヤミに強盗の嫌疑を決定的に掛けてしまうことになり、かえってイヤミを窮地に陥れることになるのだが、ここでチビ太の叫びに応じた町の住人たちが一斉に飛び出して警官たちを妨害しイヤミの逃亡を助けるという、原作とは最大に異なるクライマックスに至る。この展開において、イヤミの菊への行動とその想いが、イヤミのみならず町の人々すべてとの共有のものとして昇華するのである。町の人々もまた、イヤミと菊の「闘争」を見守っていくにつれて、ひたすら日々の生活に追われる中で抑圧していた世界への異議申し立てを露わにし、その闘いをイヤミというひとりのアウトローに託し、イヤミの方でもかつてのアウトローとしての姿勢に立ち返ってその皆の想いに応えるのだ。そして、結果としてその展開を導き目の当たりにしたチビ太も、かつて否定しようとしていた存在たち、自分が否定していた過去とをようやく受け入れ、その上でまたひとりの同志としてイヤミと対峙し、みずからの闘いそして希望をイヤミに託すのである。そしてイヤミはそれらすべての想いを背負って、まさにチビ太や町の人々含めた皆すべての希望の象徴となった菊の元へ向かうのである。

そしてこの18話のラストは数年後、高度成長期を経て「戦後」の面影を脱し、町の人々もおそらく散り散りに去り完全にイヤミの過ごした世界そして過去が失われた中で、光を取り戻し、成長し花屋を営む菊の姿を見届けたイヤミが正体を明かすことなくひとり去って行くというほぼ原作通りの結末を迎えるのだが、以上のようなチビ太そして町の人々のエピソードの変化が加わったことで、イヤミというひとりのアウトローの孤独とその生き様に一貫してフォーカスすることに徹した原作とは異なる拡がりのある、そしていくぶん救いのある余韻を残すのである。イヤミは色彩を取り戻した世界のなかで、しかしこれからは(原作同様に)より孤独に生きていかざるを得ないのだろうが、それでも菊ひとりだけではなく、その彼に希望を託したチビ太、そして町の人々たちはその世界のどこかで菊と同様に懸命に生きていて、そしてイヤミという存在を心に留め続けているであろうことが、われわれ視聴者には充分に想像しうるからだ。

しかし、これら18話全体を通じて描かれた「感動」の元、つまり「愛」とか「希望」とか「絆」とか呼ばれるもの、ついでに言えば現在の現実世界でその中心にいる人々が掲げたがるイデオロギーというのは『おそ松さん』本編でも現実の世界でもとうに空虚なものと化している。本編での六つ子たちなどはこの18話でのイヤミと同じく「労働」を拒否するという形でもって世界との闘争を試みているのだが、その内実はそれぞれのエゴに雁字搦めに自縛された、孤立し閉塞した退嬰的なものにならざるを得ない。彼らは「戦争」にせよ貧しさにせよ共通の体験も「物語」も持ち得ないからだ。そして、この18話というエピソードそのものが『おそ松さん』という作品においてはすでに過ぎ去った世界、もとから存在し得ない架空の世界として描かれ位置づけられており、それゆえに『おそ松さん』という世界そして現実に対する反証でありアイロニーなのだ。

しかし、それでもイヤミというひとりの孤高のアウトローであり「芸人」が時代と作品を超えていまだ健在であるように、『おそ松さん』という世界でも現実であっても、菊という少女に象徴されているものはおそらく実在しうるのではないか。もっとも、それはこの18話やその原作にあったような形とはおそらくまったく別のものになるだろうが。そして『おそ松さん』という世界においてもそこで生きる六つ子をはじめとする彼らが遠くない未来にそういう存在や概念に出逢うことを切に願いたいし、なにより現実を生きる我々は自らの力でもってそういう存在を手に入れなければならないというわけだ。

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