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(更新:2015年11月30日)

【感想・批評】本当の「真犯人」は誰か —『おそ松さん』第八話覚え書き—

【おそ松さん】8話感想~カラ松殺人事件発生!この中に犯人がいるッ!!で、ラストの歌は何なんだ?※ネタバレあり – びーきゅうらいふ! 【おそ松さん】8話感想~カラ松殺人事件発生!この中に犯人がいるッ!!で、ラストの歌は何なんだ?※ネタバレあり - びーきゅうらいふ! このエントリーをはてなブックマークに追加

先日の『おそ松さん』第八回の『なごみのおそ松』のエピソードは一見、箸休め的なパロディー回だったが、私的には実はじわじわと「怖い」というか、かなり意味深な内容だったように思えてしまった。下手をしたら、それこそ例の第五話や七話の解釈すら(私の中で)大幅に変わってしまうほどに(とくに第五話に関しては、さんざん時間を費やして考えあぐねつつも分析を進めていたところだったのに……)その発想や感情を整理するために少し書いてみたい。正直、ストーリーやギャグ自体はどうにもつまらな過ぎた、ということもあって、あえて深読みや妄想をしてみたくなった、というのもあるが(^_^;)。

結論から言えば、この『なごみのおそ松』という、『コナン』や『金田一』的な子供向け娯楽ミステリーのパロディをなぞった世界観やその内部での設定というのは、他ならぬこのエピソードの主役であり、そして『おそ松さん』の歴とした主人公である、おそ松という青年の深層心理なり心象風景を具象化したもの、と解釈してみると、これまた『おそ松さん』の世界に対して別の視点が出てくるのだ。

本来だったら、せっかくの個性溢れる赤塚キャラ、たとえばイヤミなりチビ太なりを探偵役か犯人役かにでもして、かつデカパンやダヨーンあたりを刑事なり警視なりにでも抜擢して、それなりに本格的なミステリーのオマージュをやってもいいようなものだが(実際、原作や旧作アニメではそのようなエピソードが存在したはずだ)、このエピソードの中で、探偵役を務めるおそ松は元から事件の捜査も解決する気もまったくない、ひたすら他愛のない幼稚園児レベルの振る舞いや悪戯を繰り広げてその現場を文字通り「なごませる」ことのみに終始する。その言動はまさに警察組織に象徴されるような「大人」の世界にそのまま紛れ込んだ野放図な幼児のふるまいそのものである。しかし、彼には、かつての赤塚キャラにあったような「大人」社会やシステムに対する無意識の破壊や反逆の意識が皆無だ。彼はなし崩しに警察とともに「なごむ」ことによって「幼児」のままでシステムの側に受容されることに成功している。そして、当の赤塚キャラたちと言えば、自分の(主役のしての)存在を脅かす対象として、モブキャラたちと一緒くたにされて次々あっけなく見殺しにされていくのである。

つまり、この『なごみ探偵』の世界は、「大人」としての義務とか責任とか代償とか、とりわけおそ松にとって都合の悪いものがいっさい無視され、もっぱら彼自身を気持ち良くさせるもの以外は一切がおのずと排除される、というものだ。つまり、彼にとって「犯人」とは「この世のどこか」にいるものすべて、彼の世界や感情を脅かしうるものすべてが対象なのだ。それは、まさにおそ松という一個人の「幼児」そのものの精神性や思考が、そのまま変化も成熟もしないままに保たれてあまねく通用してしまっている世界なのだ。

さらに深読みをすれば、いちおう最後に捕まる真犯人らしき人物は「聖澤庄之助(ヒジリサワショウノスケ)」、第二話で「ニューおそ松兄さん」としておそ松の兄弟たちに迎え入れられたキャラである。その後も「銭湯クイズ」などで六つ子たちと共演するなどして認知されている。つまり、おそ松の代役もしくは型代とも見なせる存在なのだ。この解釈ならば事件そのものが探偵・おそ松の自作自演、とも言えてしまうわけだ。

そして、このおそ松の自作自演、彼の世界を支えているのが他ならぬ彼の兄弟たちである。この「なごみ探偵」での役柄でも、普段は一見対立しているように見えて実はもっとも不可分な共犯関係にあるチョロ松、いちばん客観的に状況を把握できる立場と能力があるが結局は流されてしまうトド松、実は冷静に事実を見ているが兄弟たちに異議を唱える力を持たない十四松など、いずれも実際の、長男おそ松率いる彼ら兄弟間での立場や役回りを反映している。そして、兄弟の中では一番の異物であり、あるいはおそ松のもっとも潜在的な脅威となりうるカラ松はそれこそ何度でも「殺される」。また、一松はいまだおそ松にとっては畏怖の象徴なのだろう。

以上、私には、この「なごみ探偵」という話からはおそ松という青年の一見目立たないが、幼児的な無邪気さと表裏一体の絶望的なニヒリズムから生じる狂気の一端がが滲み出ているような気がしてならない。彼の中では自分とその分身以外の存在や事象はいっさいの意味を持たない、ということで、それは『おそ松さん』本編の世界でも同様なのだ。それは、第八話Bパートに登場する「ヒロイン」トト子も同様で、彼女は目下おそ松はじめ六つ子以外の存在とはまともなコミュニケーションを取ることができないし、その意志もない。彼女にとって六つ子以外の人間はまさにモブキャラ同然であり、完全に己の承認欲求のためのツールでしかない。とくに、何だかんだツッコミつつもかなり中心で貢献している(あまつさえ私室のベッドにまで上がり込んでいる)イヤミですらだ。当の彼女からは終始ほとんど無視されながら、にもかかわらず、結局最後まで付き合わされた挙げ句に、あっさり彼女のミサイル攻撃 に巻き込まれて吹っ飛ばされるというオチを迎えたイヤミこそが、このエピソードではもっとも不憫かつ悲惨な存在なのである。おそらく、彼女もある意味ではおそ松の分身、と言えるかもしれないのだ。

愛され養われるために個性を手に入れた「おそ松さん」たちの行方 – だれも知らない 愛され養われるために個性を手に入れた「おそ松さん」たちの行方 - だれも知らない このエントリーをはてなブックマークに追加

長男であるおそ松は「おそ松くん」から「おそ松さん」になっても外見や性格に大きな変化が生じていない。一方、カラ松以下5人の兄弟は「おそ松さん」シリーズから明確に区別が付けられるほどの特徴が付与された。

このことから考えられるのは、長男・おそ松が崩壊した箱庭の中で兄弟たちとともに愛され養われ続けるために自分の元来有していた個性を兄弟に分け与えたという可能性だ。

以上の通り、もしおそ松が自分の一部をそれぞれ弟たちに分け与え、その代償に自身の分身たる弟たちに君臨することで己を護り「幼児」のままで生き延びていくことを良しとしているならば、いずれ彼は、少なからずその代償を受けることになるのではないか。この作品の結末がいずれおそ松と他5人の「弟」たちとの言葉通りの殺し合い、バトルロワイヤルに突入するか、あるいは既に亡くなっているか消滅している「おそ松」少年あるいは青年の夢か幻想世界だった……とかいう発想はさすがに現在ではあまりにも陳腐すぎるし、まず有り得ないとは思うが、万が一そのような展開になっても、この私はそれほど衝撃は受けないだろう、と思える。

蛇のごとく粘着だが、羊のごとく惰弱。

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