5月 082016
 
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芥川龍之介 六の宮の姫君 :青空文庫 芥川龍之介 六の宮の姫君 :青空文庫

芥川龍之介の作品の中でも人気の高い短編『六の宮の姫君』については実に多くの感想や批評が語られているが、総じてヒロインの姫君に対してはネガティヴな見解がほとんどである。ご存じの通り、一見では「およそ意志や主体性に欠け他人への愛情や共感が希薄で、終始閉じた自分の世界に籠もり続け現実から逃避し続けた結果として野垂れ死にを迎える」というようなキャラクターに対して、現代の大半の読者ことに女性の側からはあまり好意的な印象は持てないし、あるいは我が身と重ね合わせて恐怖したり生き方を改めるための反面教師とするのだろう。事実、この姫君の人生を今風に例えれば「婚活も求職もせず引きこもってゲーム三昧に過ごしていたら両親も亡くなり高齢で手遅れになってホームレスになって孤独死」というような、むしろ現代にシビアに増えつつある事例に恐ろしいほど当てはまるのだ。むろん私にとっても決して他人事ではない。

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たとえば山岸凉子の短編マンガ『朱雀門』はそうした見方をもっとも明解に示したもので、真っ向から容赦なく姫君の生き方を切り捨て否定したうえで、さらにその返す刀で現代の適齢期(を過ぎた)独身女性の在り方にも辛辣に切り込んでいる。

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しかし、私としては僭越ながらこの『朱雀門』という作品そのものにはいまだ釈然としない印象を抱いている。確かに、この話の中で主人公の叔母が語る個々の指摘や見解そのものはまったくぐうの音も出ないほどの正論であり、正直耳が痛いどころか心臓を抉られるような思いなのだが、それでもしょせんは生来のひねくれ者の思考回路からあえて感じたことを述べれば、やはり千年前の深窓の姫君の置かれた立場や価値観および感性と現代のキャリア女性のそれとをあっさり度外視して結びつけて語るのはいささか強引なのではというか、作品全体の構成から言ってもむやみに木に竹を接いでいるような感をまず先に覚えてしまうのだ。

正直なところ、この話の叔母がおのれを顧みて総括することができたのは、それこそ長年好きなことを自由に妥協せず目一杯やってきて、それが世間にもたしかに認められもっぱらその実力と自信を糧に生きてきた、という実績と自負、なにより経済力という土台があったからこそで、何より相手を自由に選択できる、自分にも拒否権があるという余地があってのものだと思う。少なくともこの叔母はたとえ著しくバックグラウンドも相性もかけ離れていてとうてい共同生活は苦痛でしかないだろう、というような相手であろうとひとえに生活や身の安全の確保のためのみに受け入れなければならない、いう状況にまでは追い込まれていないのだ。

いっぽうの姫君にしてもさすがに元から生活の努力を完全放棄していたわけではなく、一度は嘆き悲しみつつも身分違いの男に身を許しているのだし、それは姫君本人にとっては精一杯の相手や周囲に対する妥協であり許容であったはずだ。どうしても男として愛することができない相手であっても他愛ない話を黙って聞いてやり晩酌もして愛想笑いもしてやるのも、ある意味では許容であり寛容でありある意味「労働」とは言えるだろう。そのように高貴な姫として女性としてのプライドを泣く泣く捨ててまで得た生活の安定も男側の一方的な都合で断たれてしまったわけだ。再婚しようにも当然相手はさらに条件も中身も酷くなり、かりに働こうにもそのような技能や心構えは両親からも乳母からも誰からも一切授かっていないしおそらく出仕先の伝手もない、そうでなくとも高貴な女性が表に出て誰かの元に仕えなければならないという事態そのものが、現在の「負け犬」呼ばわりどころではない酷い侮蔑や哀れみの対象だったりしたのだ。たとえそれでも、地を這って泥水をすすってまで生きのびるための意欲も力も持たなかった、持てなかったというのは確かに姫君の弱さではあったが、それでも私にはこの『朱雀門』での叔母の見解というのは、生まれつき心身ともに健康な人間が重度の鬱病の人間に対して怠け者とか努力不足とか責め立てるような言い様に見えてしまうのである(実際、小説中でのこの姫君の言動は鬱病の症状に近い)。彼女の言う「生」への努力とこの姫君に求められた運命なり生への努力というのは、質量ともに天と地ほどの差があると思うのだ。

……とか考えていたら、すでに当の原作者である芥川龍之介ご本人からのアンサーがすでに存在したのであった。

芥川龍之介 文放古 芥川龍之介 文放古

結局、いつの時代にもこの手の「一知半解のセンティメンタリスト」が存在しており、一見物知り顔でいながら結局は自分にとって都合の悪いメッセージも自分の現実も切り捨てておいて、自分ひとりが特別ななにかを悟って一段上に上がっている気になっている手合いというのが世間の大半を占めていて、芥川はおそらくそのこと自体に辟易していたのだろう。実際この私などがその筆頭であり、今こうして不遜極まりなくもこの文豪の名作と天才女性マンガ家の力作に対してそういう所行をやらかしているわけだが、それでも、こうした傾向はベクトルは真逆とはいえ『朱雀門』という作品に対してもわずかながら感じてしまう、ということだ。これらを踏まえたうえでもやはり、私の見解は一貫してこちらの記事に近いのである。

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時々思います。「良く生きる」とはなんなのだろうか、と。
そもそも「良い人生」とはなんなのか。
姫君の生き方と良い生き方の差はなんなのか?
それは結局他人が決め付けることです。姫君は自分の人生を振り返り後悔するような言葉は言っていないはずです。
もし後悔していたなら、法師の言うとおり念仏を唱えたはずでしょうから。
ある意味で姫君は虚無としかいえない人生を全うしたといえます。
でもそのことを非難する権利なんて他人にあるはずはありません。結局、法師だって姫君の心までは救えなかったし、姫君もそんなことは望んでいなかったのですから。

さらに言わせていただければ、例えば『地獄変』のような、他者への寛容や相互理解どころか肉親の情すらも捨て去って犠牲に捧げたうえで自らも現世を拒絶し地獄に堕ちる……という芸術家の生き様死に様を描いたような作家が、そして自身も神経衰弱のあまり四十に満たずして幼い子供たちを「見捨てて」自殺してしまうような人間が、言ってしまえばかのようなしごく現実的でまっとうに過ぎる「教訓」話などを描きたがるとは思えないのだ。まして俗世間の凡百の婚活女子および男子などのためになるような説教などをよりによって自分の創作の中に入れる気などなかったはずだ。おそらく芥川はこの『六の宮の姫君』を含めた自作品から何かに対して訴えようとか変えようとかいう志向はなかったし、誰かを批判するつもりも断罪するつもりもなかった。ただただ純粋にひたむきに文章による一箇の精巧な芸術品を創り上げたかっただけなのだ。それこそ『朱雀門』に限らずなまじ現実的な教訓性や指針やら批評やらテーマやらとはおよそ無縁のもの、むしろそうしたあらゆる定義づけを徹底して拒絶し冷笑するような姿勢であり、むしろそこにこそ芥川の本懐、凄みがあると思うのだ。

しかし、いかなる才能溢れる文豪や芸術家であってもこの現世に生身の人間として在る以上は霞を食べて暮らしていくわけにはいかない。ひとり俗世の些末事などに煩わされることなく超然と月や花を愛で琴棋書画を嗜みつつ過ごしていきたい、とは思っていても、それを支えるための衣食住を得るためには、身を売るとまではいかずともおのれの時間と身を削って労働するなり、たとえ相性の合わない虫の好かない相手とも妥協して付き合ったり時には媚びを売らなければならないわけだ。誰しも『地獄変』の良秀のようにそう心置きなくおのれの信念のみを全うすることなどできない。まして自分ひとりのみならず、何だかんだで自分を愛してくれる家族や気遣ってくれる友人知人たちがあるとなればなおのことだ。実際、この『六の宮の姫君』と前後したあたりから芥川には自身の心身の不調に加えて親族への援助や老いた養父母と伯母の扶養、なにより妻と幼い三人の息子たちを抱え、これらの実生活上のしがらみや重圧に悩みながらさらに自殺を考えるまでに神経を疲弊させていくのだし、生活のためにと意に染まぬ「通俗的」な小説も手掛けたりしているのだ。

芥川龍之介年表 芥川龍之介年表
芥川龍之介の青春 : 畑に家を建てるまで 芥川龍之介の青春 : 畑に家を建てるまで

むしろ、六の宮の姫君の造形にはこのような芥川自身の葛藤や苦悩が投影されているのではないかと思う。自分には親たちの愛や期待も知人の援助も気遣いも踏みにじりうち捨てておのれの芸術に殉じる(地獄行き)心意気も持てず、しかしきっちり世間と折り合いを付けながら豊かさと名声をともに勝ち得ていく(極楽行き)強かさもない、ただ寝食を確保して生活していくだけで心身ともに疲れきって、創作する意欲や気力すらも枯れ果ててしまう。もし身一つならば世間の一切から離れて何もかも放り出して忘れて静かに老いるまで過ごしたい……しかし現実として野垂れ死にはやはり辛いし、世間の目を抜きにしても身内まで巻き込んでともに路頭に迷わせるのはさすがに心が痛まないでもなし、仮にもしそんな体たらくで終わることになるならば、自分はその報いを甘んじて受けねばならないだろう……。

姫君は「地獄も極楽も知らな」かったのではなく、地獄と極楽のどちらも選べなかった、さらに言えば選ばなかったのではないだろうか。何かを生み出すということ、そして生そのものを全うするというのはその前提や過程において何かを信じるということが必須で、しかし自分には何かをひたすら信じるということそのものができなかった。肉親や乳母や男の愛を知りつつもそれを信じることができず、結局応えることができなかった。そして何よりそのような自分自身を信じることができなかった。そんなどこまでも不甲斐なく空虚な自分には地獄であろうと極楽であろうとどちらを選ぶ資格などないし、ましてどちらにも安住などはできない。ただ現世と彼岸の狭間、「暗い中に冷たい風ばかりが吹く」虚ろな空間に永久に漂い続けることこそが自分にとっての唯一の安住の地であり、そして罰でもあるのだ。

そして、法師のほうでもそんな姫君の魂をことさらに断罪したり批判したりするつもりはなかったのだろう。そのような選択しかできなかった姫君の生に思いを馳せ、その弱さも含めてむやみに肯定も否定もせずだだ受け入れて寄り添っているだけなのだ。僭越ながらそういう解釈のほうが、通りすがりの侍にも知られ両手を付いて礼をされるほどの権威を持ちながら、乞食坊主に身をやつして市井に身を投じる高徳の上人の発想や在り方にかえってふさわしく思える。さらに言えば、それは芥川自身が望んだ自身の死後、そして自らが遺した作品に望むもっとも理想的な対応だったのではと思えてしまうのだ。自分の人生や遺したものに対して余計な判断や無粋な定義づけはいらない、ただその痕跡から自分の弱さや過ち、嘆き、絶望をわずかなりとも嗅ぎ取って、記憶に留めておいてくれればいいのだと。

いずれにせよ、この『六の宮の姫君』という作品が世に出て、そして芥川没後90年近くが経過してもなお、山岸凉子なども含めた幾人もの大物作家をはじめ多くの読者の心の琴線に触れその中に残り続けている、そのこと自体が芥川にとって唯一にして最大の救いであり、そしてこれからも永劫、この世に生まれてさまざまに世間や人生に直面し、そして生きて死んでいくであろう数多の「芸術家」たちの望みであるに違いないのだ。……もっともこのような感慨すらも、もし極楽か地獄かそのどちらでもないどこかの空間に漂っている芥川の魂が見かけたならば、一瞥するなり鼻で嗤って抽斗の奥なり屑籠の中なりに抛り込んでそれっきり、ということになるのだろうか。それでも私は、やはり大方からは不甲斐ないと言い捨てられる人生しか選べなかった姫君の孤独と哀しみに思い入ってともにほそぼそと嘆き続ける、不甲斐ない女の一人であり続けることだろう。

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  2 Responses to “【エッセイ】芥川龍之介『六の宮の姫君』について思う”

  1. 「六の宮の姫君」に関して書かれたネット上の文章の中で、一番心に残るエッセイです。

    「自分には親たちの愛や期待も知人の援助も気遣いも踏みにじりうち捨てておのれの芸術に殉じる(地獄行き)心意気も持てず、しかしきっちり世間と折り合いを付けながら豊かさと名声をともに勝ち得ていく(極楽行き)強かさもない」

    という箇所は特に興味深く読みました。
    しかしながら、現世的な成功者を「極楽行き」としていいものかどうか、考えものではないでしょうか。
    たとえば盟友・菊池寛を「私の英雄(ヒーロー)と呼んだのは有名ですが、だからと言って、実務家でもあった彼の芸術を評価していたわけではない芥川には、別の「極楽」があり得たのではないでしょうか。
    自身の芸術を追究しつつ、かろうじて破滅を免れ生きながらえる、第三の生き方。
    これはなにも彼のような芸術家のみならず、それぞれの現代人が絶えざる苦闘の中で、みずからの自己を確立しつつ、保身との両輪で生きる姿に通じるものではないでしょうか。

    • ありがとうございます。

      >自身の芸術を追究しつつ、かろうじて破滅を免れ生きながらえる、第三の生き方。
      >これはなにも彼のような芸術家のみならず、それぞれの現代人が絶えざる苦闘の中で、みずからの自己を確立しつつ、保身との両輪で生きる姿に通じるものではないでしょうか。

      これはまったくその通りだと思います。芥川もむろん世間的な「成功」=極楽とは考えてはいなかったでしょうし。
      しかし、やはり現実、とくに昨今はただ衣食住を確保して生きていくだけでもなかなか大変な状況ですよね。芥川のような芸術家ならずとも、そう漫然とはしていられない、常にシビアに己の立場を自覚しつつ世間と対峙していかなくてはならない。
      こういう現代だからこそ、より「六の宮の姫君」をはじめとする芥川の作品が存在意義を増してくるのかもしれません。

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