7月 092017
 
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ドラマ『フランケンシュタインの恋』

フランケンシュタインの恋|日本テレビ フランケンシュタインの恋|日本テレビ

以下、ネタバレ大いに有りです)

 

今期2017年春クールのドラマ『フランケンシュタインの恋』は、120年前にとある一人の孤独な博士の「恋」によって生まれた「怪物」と、ヒロインを含めて彼に関わった人間たちそれぞれの苦悩と葛藤、そしてそれぞれの「恋」による再生と救済を描いた作品だったが、全体を通しての視聴率はあまり良くなかったらしい。そして、その結果は以下の記事でも指摘されている通りにそれなりに納得せざるを得ないところがあったとは思う。

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以上の記事にもあるとおり、その要因の一つには本来のヒロイン、主人公たる「怪物」深志研の「恋」の相手である津軽継実がストーリー展開の大半においていっけん主体性が希薄なキャラクターに見えてしまった点があるだろう。総じて現代のフィクションにおいては心身ともにポジティヴに行動し能動的に活躍するヒロインの方が感情移入しやすく人気もあるし、実際に、その継実とあらゆる意味で対照的なキャラクターとして描かれていた稲庭工務店の従業員・室園美琴の魅力と存在感の方が川栄李奈の好演もあって確かにより際だっていた。

しかし、それらを踏まえたうえで一つこちらが言及しておきたい点は、この物語世界において津軽継実という人間は一貫して「怪物」そして人間世界における“異物”として見なされている深志研をおのれと同質の存在とみなし、対峙しつづけた唯一の存在であった、ということだ。研と出会うまでの継実は母方からの遺伝と思しき難病、脳の血管が詰まっていつ破裂して死ぬか分からない、少しでも激しく動いたり興奮したりするとそのまま命の危険に晒されるという「障碍」を抱えて生きてきた。そのため本来は第1話での前半で端的に現れていたように人一倍の好奇心と探究心を持ち、現にそれが研と出会い彼を人間世界に連れ出すきっかけになるのだが、このような病気のために、姉の過剰なまでの保護や心配もあって常に自身の感情や行動を抑圧せざるを得ず、他者とも一線を引いた交際しかできなかった。大学のゼミの稲庭先輩こと聖哉に対しては同じ学究の徒としての尊敬や信頼は抱いていても、いつ発作で斃れるか分からない自分にはその求愛には応えることができない。しかし、その「障碍」というのは傍目には分かりにくく理解されにくいものであり(実際に十勝みのるに難癖を付けられる場面もある)また彼女自身が常に周囲から壁を作っていた弊害でコミュニケーション力に乏しく、しばしば要らぬ誤解やトラブルを招いてしまう……これらは、かつておのれの「力」でかつて愛したはずの人を死なせてしまい、その「力」を忌みながらひとり外界と隔絶して生き、そして人間社会に出てからも常におのが異形と力の暴発を恐れ抑圧し続ける深志研の状況と似通っていると言っていい。この『フラ恋』放映中には継実の感情が分かりにくい、受け身なばかりで共感しにくい、という感想が多く見られたが、むしろドラマ中盤までの研の有り様やそれにまつわる周囲の反応などをなぞっていくことで、そのままヒロイン継実が半生において置かれてきた立場とその感情をほぼ推測できるのではないか。まさにおのれのありのまま、感情のままに生きることが許されない、常に世界そして他者からもなまじ「異物」として遠ざけられ、みずからも遠ざかりつつ負い目を常に感じながら受け身の、それこそ人里離れた山奥にひっそりと生えるキノコのごとくにしか存在できないこと。これこそが津軽継実の苦しみの本質であり、その苦悩を理解しあい分かち合うことができる初めての、そして唯一の存在が他ならぬ深志研だったのだ。

そのような継実が研を外界に連れ出したのは、研が自分そして自分が愛するキノコと同質であり同様の精神性の持ち主であることに気付いたからだ。キノコすなわち菌類は生物のもっとも原始的な形態であり、植物と動物の狭間で生息し、人類にとっては時に有益であったり猛毒になったりする存在である。そんなキノコをおのれの体内から次々に生み出しかつそのキノコと共生し、というより「キノコ」そのものの在り方そして生き方をしてきた研が、継実自身が信頼する数少ない身内や恩師や知人たち(その筆頭にはもちろん稲庭先輩が含まれるだろう)に受け入れられ、愛し愛されて互いに信頼を築き、それによってその性質をうまく抑制し制御する術を得ていくことで(彼女が好きなキノコと同じように)社会に受け入れられ、かりにこの自分が亡き後もその永い時間を孤独に苦しむことなく生きていってほしい。そしてそのように彼を導きその手助けをし見守っていくことが、この自分がおのれの同志であり同類である彼に対して唯一できることで、そして生きがいなのだ……と考え、自分には欠けている生命力そして時間に恵まれた研(何しろこれまで120年生き抜いた実績がある!)におのれの希望を託したわけだ。

もっとも、それらの継実の望みは天草純平によってエゴによる傲慢と指摘され、加えて当の天草の複雑な思惑や願望、稲庭先輩の拗れた愛憎による目論みも絡んで破綻してしまう。それらを経たうえで、継実はようやく自身の命にかかわるハンディも顧みずに自らの意志で研を守る行動に出るのだ。もはやエゴでも欲望でも構わない、他の誰にも頼らない。たとえどんな形であっても他ならぬ自分がみずからの手で、自分の唯一の同志であり分身であり、そしてかけがえのない恋人である彼を救い守るのだ……とその強い決意、感情を、おそらく彼女が生まれて初めて他者に向かって露わにした瞬間に、継実は(案の定)発作で倒れ、しかしそれと同時に研をはじめ彼女をめぐる人々が、そして物語そのものが劇的に変貌していくのである。その後、研の手による再生を果たした継実は再び研を探しだして自ら彼の隠れ棲む山中に転がり込み、ようやく真の意味でともに生きていくという想いを果たすのだ。

ちなみにこの展開というのは、継実の高祖母の妹でありかつて研の前身である山辺呼六と愛し合った女性・サキが「怪物」と化してしまった彼を拒絶し、彼の手に触れられたことで命を落としてしまったという端緒と対を成している。このサキは継実とは対照的に心身ともに健康そのもので快活な女性として描かれるが、それでも時代や身分によるさまざまな制約を受け、おのれの本当の意志や願望を抑圧せざるを得ない状況に置かれていた。ゆえに純粋に病に苦しむ人々を救いたいという望みのままにひたむきに行動する医師・呼六に惹かれ、彼に寄り添い支えていくのだが、それでも彼への想いはほんらい断念せざるをえない身の上だった。結局、志半ばに斃れた呼六を、呼六の師であり同じくサキに惹かれていた深志研太郎博士が蘇生させるも生前の記憶を失い「怪物」に変わり果ててしまった呼六をサキは受け入れることができないまま、今度は自分が亡くなってしまうのだ。これらによるサキが図らずも作ってしまった「罪」そして遂げられなかった想いを時を経て「病」という形で受け継いだ子孫の継実が、「怪物」となってもサキの愛した山部呼六だったころの純粋さ優しさを持ち続けた研と出会いを果たし、かつ真に彼と対等にして同じ志をもつ人間として研を受け入れ結ばれることで、サキの遺した業の浄化そして「恋」の成就が果たされるという構図を見ることができる。

加えて、研と継実の関係に対する稲庭先輩の愛憎というのもこの物語の重大なキーになっていくわけだが、彼は彼で、実は母親に先立たれたトラウマをずっと抱えていて、彼が継実に惹かれたのもおそらく母親の姿を継実に投影しており、そんな彼女を守り愛し愛されることができれば自分の母親へのトラウマも罪悪感からも救われる……と考えていたのだろう。しかし研の出現と彼の純粋で(人間的な)エゴとは無縁のありさまを間近に見るにつけ、そしてそのような研と継実との絆の深まりにつれて、自分のそんな感情が多分に傲慢さと欺瞞を含んだものであることを次第に自覚させられ、彼らに対する羨望と嫉妬の狭間で葛藤し続ける。そして研が出演したラジオの公開放送での事件をきっかけに、自らのこれまでの抱えてきた研への感情を当の研や継実を含めた親しい人々の前でさらけ出す。ここに至るまでの展開はかつて120年前におそらく自分の初めての理解者であるサキに惹かれながらも、同時に呼六の純粋な情熱と生き様にも嫉妬しつつ憧れていた深志研太郎博士の心の変化をなぞっているといえる。しかし、自らの業に引きずられるままおのれとおのれの「恋」した人々の破滅を招いてしまった深志博士とは異なり、稲庭先輩のほうは皆への告白によってそんな自分のエゴ、弱さ醜さ穢さも含めてありのままの自分を認め受け入れ、その上でひとりの生身の男として人間として、研や継実をも含めた皆とともに生きる決意をするのだ。そして、その覚悟こそがまさに継実の自ら研を守ろうとする決心をうながし、さらに120年にわたり封印されていた深志博士の想いを受け止め、さらにその上で長らく研や継実とは別の意味において世間での「異物」であった美琴を同じく葛藤し苦しみそれでもひとりの人間として生き抜く「同志」として認め受け入れ、彼女とともに研そして継実を人間としての「先輩」として導き支えていく。こうした稲庭先輩こと聖哉の選択が彼の「恋」した継実と研ばかりでなく、深志博士の「恋」したサキと呼六の願いも果たすこととなり、そして彼らの「師」であった深志博士の贖罪もなされるのだ。

「愛」もしくはその言葉に象徴されるイメージが見返りを求めずエゴも含まない無償の純粋なものなら、「恋」は性的なものも当然含んだ欲望やエゴを内包した、しかしそれでも相手を知り求め愛したいと望み、ともに触れ合い寄り添いたいと願ってやまない人間としての業そのものであり、少なくともこの物語の中ではそのように描かれているように思える。それは単なる男女間のものに留まらず、たとえば稲庭工務店社長や従業員たちの職人としての矜持、鶴丸教授の科学者としての執念や天草純平のラジオDJとしての葛藤や逡巡もまた「恋」なのだ。彼らを含め、天草のラジオ番組のリスナーや出演者やさらに数多の観客や街の住人たちに至るまで、深志研に関わるこれらの人々それぞれ一人ひとりの想い、さまざまな影や負も含んだそれらすべてが菌糸のように絡み合い、触媒となってさまざまな変化を生み、深志研という一箇の存在とともに、津軽継実を筆頭に彼を「恋」した人々の再生に繫がっていくのである。そして、まさにその「人間」としての業、この作品において「恋」という言葉によって表されるものの象徴こそが、「怪物」そしてこの物語そのものの生みの親ですべての発端である《フランケンシュタイン》こと深志研太郎博士なのだろう。

しかし、本来その最重要人物である深志研太郎という存在のキャラクター、背景や存在感を描くには、正直なところその描写があまりに不足していた感は否めない。ヒロイン・継実にしても丹念にたどっていけばその感情の変化も在り方も一貫していて明解なのが理解できるのだが、やはりこれも、もう少し彼女の心情や状況などを描写するエピソードや演出をもっと加えて欲しかったところである。そしてこれらの原因は単純に放映時間も含めたテレビドラマとしてのスケールに対し、あまりに内包されている各キャラクターの背景や物語、そしてテーマが多大すぎたということだろう。その不足分を補おうとしてか(制作者たちの分身である)天草をはじめラジオ番組の面々にそのテーマを直截に語らせすぎたきらいもある。この天草ラジオパートに加え稲庭工務店の面々のエピソード、継実の姉や祖母の葛藤や想いなど、それぞれに不可欠であり魅力的に配置されてはいたのだが、やはり研そして継実の物語と結びつけて効果的に語るにはいずれも掘り下げが不足していた。言うなれば「壮大な傑作大河ドラマの、非常によく纏まったダイジェスト版」といった感があり、結局はこのドラマで語ろうとした「恋」に含まれるものの本質が1クールのテレビドラマの枠には収まりきらないものであった、ということに尽きるのではないか。

しかし、これらの欠点や不足を踏まえたうえでも、やはりこの『フランケンシュタインの恋』が、かりに120年以上とまではいかなくとも数多の視聴者の心に残り続けるであろう作品のひとつであるのは確かである。このドラマそのものがあたかも心身ともにアンバランスで無骨で不器用な、しかしこの上なく繊細かつ真摯で激しい信念と情熱を秘めた「怪物」こと深志研の生きざまそして存在そのものの象徴とも感じられるのだ。そして、そんな「怪物」こと深志研を演じきった綾野剛をはじめ、二階堂ふみや柳楽優弥に前出の川栄李奈や新井浩文などキャスト陣の熱演、そしてもちろんこの物語を生み出した河野英裕プロデューサーと脚本家・大森寿美男以下のスタッフには、みなすべてに揃って賛辞と感謝の念を送りたい。

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