3月 222018
 
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舞台「おそ松さん on STAGE ~SIX MEN’S SHOW TIME 2~」公式サイト

今年2月23日よりアニメ『おそ松さん』の舞台化の第2弾として公演されていた『おそ松さん on STAGE ~SIX MEN’S SHOW TIME 2~』、実は一昨年秋の初舞台の時点で少なからず興味はそそられていたのだが、ごく最近になるまでは観賞の機会と意欲がなかなか持てずにいた。恥ずかしながら経済的な事情が最大の理由だが、加えてアニメ本編のただでさえ辛辣で生々しいテーマと世界観を生身の役者が直にライブで演じ再現するところを見せつけられるのは精神的にかなりキツいな……という不安と恐れが多くを占めていたのだ。しかし、この二度目の舞台化にあたってかなりの盛り上がりと好評ぶりが相次いで伝わってきたのと、次男カラ松役の柏木佑介くんの全体に男らしい雰囲気と顔立ちと体付きとは裏腹な、カラ松を彷彿とさせる愛嬌あふれるぱっちりした目元と片えくぼとそれより何より「カラ松」の再現度のあまりのハイレベルぶりに、これは一度は直にコレが動くところを観てみたい、というか一度は観ておくべきだという衝動が日増しに強まり、しかし当の舞台のチケット確保が想像を遥かに超える激戦ぶりだったのとやはり恥ずかしながら経済的な事情もあってライブの観劇は果たせなかったのだが、千秋楽のライブビューイングの方はわりと簡単に取れることが分かったので、やっとこさ先日の11日に滑り込みで地元に近い映画館に観に行った次第である。

結果、やはりいろいろと感じるものがあったが、総じて難しいこと抜きに心底楽しめるエンターテインメントとしては最高のものであり、とりわけアニメ2期の最近の展開にいろいろと思考も精神もあれこれ拗らせる一方であった私にとっては一服の清涼剤以上のものであったことはまず述べておきたい。キャストはメインの六つ子たちを筆頭にF6のメンバーたちやイヤミ、チビ太、トト子そしてハタ坊といった脇を固める面々に至るまで揃ってみな役柄にハマっており、とりわけ十四松の小澤廉くんの期待をはるかに超える十四松ぶりと(アニメ本家にできて彼にできない事といえばリアルでの分裂と水芸くらいではなかろうか)、やはり柏木くんのカラ松のこちらの期待をはるかに上回るカラ松というか骨の髄から全身全霊からあの手この手で問答無用に放出される、松野カラ松スピリットの最も良質な形の体現ぶり(アニメでは聴けなかった子守歌まで披露してくれる!)には大いに萌えまくり歓喜し、しかし正直もっとも驚き感動したのが、他ならぬ六つ子たちのリーダーにして長男・おそ松役の高崎翔太くんの存在感である。ご存じの方はお分かりの通り、この高崎くんはほんらい松岡昌宏似の超絶美形でありながらアニメ本家以上の奇跡的な精神年齢小6以下の超絶ナチュラルボーンバカ長男を奇跡的かつ天才的なオーラで演じ切っており、それは正直なところアニメ『おそ松さん』どころか原作『おそ松くん』のキャラすら凌駕するほどの生粋の赤塚的破滅的破壊的なバカのカリスマぶりで弟たち以下他キャラを圧倒し、そんな彼の演じる「松野おそ松」こそが名実ともにこの『おそ松さん on STAGE』という舞台そして世界そのものを支え、根底から形作っているのである。

この舞台において言うまでもなくアニメ本編と異なる最大の特徴は、基本は社会的最底辺クソニート童貞である六つ子たちがそれぞれ手前勝手に妄想した美化バージョンである「F6」の比重と存在感の大きさだろう。元はアニメ1期において通常の六つ子たちが現代のアニメファンとりわけ女子人気を獲得するために考え出したそれぞれの(過剰にトチ狂った方向の)究極の理想形として描かれるF6だが、舞台においてもひたすら各自に与えられた超人的な能力と魅力をフルに発揮して全世界全宇宙の危機を救うその合間に、トト子をはじめとする女子キャラ達のみならず『おそ松さん』という舞台の観客(その大多数を占める女性ファン)の前に現れては、何度も舞台上から降り立ち全力で観客の間を歌い踊り笑顔を投げかけ、舞台上の女子キャラにはあの手この手でその願望に応え文字通り体を張って奉仕する。彼らはこの『おそ松さん』舞台においてはある種のパロディーという域を超えて、それぞれが自律した意志を持ち通常の六つ子たちとその世界とは独立して存在し、自分たちの意志であらゆる時空次元そしてステージと客席という「境界」をじつにあっさりと超えて行動してみせる。

しかし、その彼らF6のその意志なり力なりというのは、もっぱら世界そのものそして(観客である我々を含めた)その世界に生きる有象無象の無力な存在、とりわけ女子たちに向けられている。彼らは彼女たちの夢や願望を察知し実現し体現すること以外の目的も願望も持たないようにみえる。その世界においても舞台上の設定においても最高の美貌と財力とあらゆる超人的能力に恵まれている彼らは究極に満たされた存在であり、しかしそれゆえに自分自身のエゴや欲望や願望はなにひとつ持たない空虚な存在で、しかしその空虚さゆえに完璧な超人的存在としての力を獲得し、その力はひとえにその世界に生きる無力な数多の女子たちの夢想や願望の質量に応じてひたすら無限大に増幅していく。つまり彼らF6の超人性そして存在そのものは彼らにそれぞれの夢想や願望を投影するその世界の無名の住人とりわけ女子たちが成立させている。本来は六つ子たちの夢想と欲望の産物であったF6は(その空虚さゆえに)この舞台においてその観客たちも含めた無数の女子たちの夢想の力によって召喚され、はじめて確固たる存在意義を与えられその属性による力を保ちつつさらに強化されたうえでの実在を獲得したのである。

一方で、そんなF6たちを生み出したはずの当の六つ子たちといえば、終盤までそのF6とは(舞台の進行上では)ほとんど接点を持たず、ひたすらモテないモテたいとぼやきながらそれぞれ相変わらずニートとしてマイペースにダラダラと他愛ない?日常を繰り広げる。彼ら六つ子たちはアニメ同様に何も持たず何者でもない存在で、アニメ以上に実社会からは遊離しもちろん実在の女子たち含めた他者との接点も持ち得ず、そしてその舞台のわれわれ観客との間も分断されている。しかし、彼らはそんな閉塞し完結した世界の中で、それでも精一杯ポジティヴにおのれ等の何も持ち得ず何事も起こり得ない日常そして人生を、おのれらそれぞれの個性と気質に応じて全力で明るく面白おかしく過ごしてみせる。つまりF6がその卓越した能力をひたすらさまざまな世界や他者にあまねく注いでいるのに対し、彼らのなけなしの力はただ専ら自分たち自身の満足と日常の快楽のために費やされている。そして常にその中心に存在するのが彼らそして我らが長男、高崎翔太演じるおそ松である。実際には根本はかなりのニヒリストであり当初からおのが同胞たちを「五人の敵」と言い切るアニメの彼とは異なり、こちらの舞台のおそ松はそんなニヒリズムを踏まえた上で、我が弟たちも含めておのが日常そして世界で起こるあらゆる(くだらない)発想やささいな?(バカバカしい)事件や事象を拾い上げてはそのすべてを受容し肯定し、自ら率先して増幅させ楽しもうと心底から、しかしあくまで純粋にナチュラルに力を尽くし行動する。その有り様はまさに原作の『おそ松くん』含めた赤塚作品にある「これでいいのだ」の精神にも通じるように思える。

そして、そんなおそ松の元で他の六つ子たちもそれぞれの方法でそれぞれの日常を心身ともに謳歌する。カラ松はスルーされても(主に一松に)罵られても一切めげず動じずおのがナルシシズムを貫き続け、チョロ松は働きたくないドルオタの自分を早々に認め受け入れ、一松はこれまたセンシティヴで猫と兄弟にしか心を許せない自分を自覚し認め、十四松はひたすら奇天烈な発想のまま純粋に奔放に暴れ回り、そしてトド松はそんな兄たちを上手いこと転がしたりノったりしつつマイペースにニート生活を楽しむ。さらにそんな彼らをとりまく面々も同様で、トト子はアイドル稼業とF6との逆ハーレムドリームを同時に同様に全力で楽しんで演じ、チビ太は何の迷いもなくおでんへの愛を叫び情熱を歌い上げ、ハタ坊はこれまた何の葛藤もなくその財力をフルに活用し謳歌する。この舞台『おそ松さん』世界では、傍からはアニメ以上に閉塞的であるにも関わらず(もちろんそれは「舞台」だからやむを得ない)、皆がそれぞれおのれの人生と存在そのものを心底から肯定している。

しかし、そんな彼らとりわけおそ松の現状肯定の力と意志にもさすがに陰りが見える時がある。それはやはり彼らが「モテたい」等々の現実の「外」の世界でしか手に入らない、解決できないものを内心から求めだした時である。そしておそ松のそんな意識下の不安や罪悪感が「裁判」などの悪夢?の形で具現化したとき、まさに彼の前にはじめて降臨するのが他ならぬF6の面々である。これまでの展開で常に世界の他者とりわけ女性たちに向けられていたF6たちの力が、一介のニート童貞男子であり、しかしまさしく彼らの創造主のひとりであるおそ松に最大に発揮され、彼を再生させるのである。そして、その再生はこれまでにF6たちによっておのが夢を具現化され満たされ、そして一方でおそ松をはじめとするニートな六つ子たちの有り様を見守ってきたこの舞台の観客たちすべての想いを合わせることで実現する。F6たちが存在し続け世界のためにあまねく力を発揮できるのは、他ならぬ何も持たないながらそんな自分を心から肯定するおそ松たちの存在あってのものであり、そしてそんなF6にあまねく力を与えられたわれわれ観客がF6に助力し彼らに与えられた「愛」を彼らを通しておそ松に与え、再生のための力を吹き込むのだ。

そして、これらF6そして観客たちという「外」の世界の他者たちの合力によってめでたく再生の儀式を終えたおそ松そして弟たちが、続いて他ならぬおのれの日常においてあらためて自分たちの意志と行動により「愛」を認識し受け入れた上でさらにその愛を他者へ返す、というもう一つの儀式を経て、彼ら六つ子はふたたび自分たちの人生そして存在への肯定を確固たるものにする。その後に至って、ついにそんな六つ子たちが真正面から舞台上でF6たちと邂逅し、ともに彼らと肩を並べて歌い踊り、そしてわれわれ観客たちの間に降り立って彼らと「愛」を歌い、みずからわれわれ観客に触れあって「愛」を返し愛に応えるのだ! そして、ここに至る展開におけるF6の有り様には「アイドル」というものの理想的な形のひとつを観ることができる。世界の無名の無力な有象無象たちの願望によって創造され演出されたアイドルがその願望を投影し照射しつづけることで自らも力を獲得し、その力により自らの魂と人生を満たしたファン達がその与えられた力でもってさらに現実の隣人たちに愛を分かち与えていく、という構図である。

こうした構図を経たうえで、ラストにはこの六つ子たちとF6が実はやはり相互に不分離であり根は同一であり、補完し合うことで互いがはじめて完全な存在として完成することが明解に示される。F6があらゆる自分のための欲望そして自我を持ち得ない代償に、世界そして他者への博愛の化身としての超人として君臨しつづけるためには、徹底して自分のための欲望に囚われそれでも揺るぎなく自我を持ちおのれの生と存在を肯定する、おのが分身である六つ子の存在が不可欠なのである。そして、ひとえにその揺るぎない自己肯定において、いっけん無力なニート童貞青年である六つ子たち、とりわけおそ松はF6とまったく違った意味での、しかし比肩しうる(おそらくニーチェが言うところの)「超人」なのである。何も持たず何者でもない、ありのままの自分ありのままの生をそのまま認め肯定するということは、たとえどんな傑出した才能や巨万の富や権力に恵まれていても、ひとえに人間であり続ける以上はそうそう容易には為し得ないことだからだ。そして、そんな彼らの有り様生き様をまとめて肯定するのは、彼らによって愛を与えられ、彼らを見つめ肯定してきたわれわれ観客という、この現世の有象無象の他者であり人間なのである。

以上をもって、この『おそ松さん on STAGE』という舞台は、およそ目下のアニメ『おそ松さん』本家の世界において最大に欠けているものでゆえにその世界の彼ら彼女たち、さらに現実を生きる我々が必死になって探し求め奪い合っているものを徹底して全力で肯定しているもので、ゆえに現実を生きながらアニメ『おそ松さん』を視聴し見守り続けている我々にとっては最高の形の回答であり救いになるものだ。もちろん、舞台の彼らのそうした生き様有り様というものは、まさに「舞台」という世界、いっとき外界から遮断された刹那の空間でこそ可能とも言え、片や「現実」そのものに現在進行形で侵食されつつあるアニメの『おそ松さん』世界の彼らと安易に比較するのはフェアではないだろう。それでも、だからこそそんなアニメ世界から創造されながらもアニメとまったく対照的なテーマを体現しているこの舞台作品はそれこそアニメ『おそ松さん』にとってのF6のごとき存在であり、ゆえに『おそ松さん』世界とそこに生きる彼ら六つ子たちを愛し見守ってきた私としても、さらにパワーアップしたうえでの次なる上演の時を待ち望んで止まないものである。

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