8月 222018
 
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綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人の“元少年”が、今度は殺人未遂で逮捕されていた!

女子高生コンクリート詰め殺人事件

確かに、犯罪に至る過程や背景には個人の資質や属性のみならずその生育環境や社会背景や構造などの問題も考慮するべきであり、その責任は犯罪を起こしてしまった当人のみならず社会の構成する人間にも少なからずあるもので、その問題はなるべくこの社会の皆で分かち合って対処改善していかなければならず、犯人ひとりを断罪し排除して済ませて終わり、というものではない。また、死刑という刑罰には確かに倫理的にはもちろんのこと現代の司法の在り方やシステムの点からも大きな矛盾やリスク、デメリットがあり、したがって世界の多くの国では廃止する流れに向かっているのはそれなりの理があってのことだ。また、とくに心身ともに経験も知識も乏しい未成年ならば、その未熟さゆえに罪を犯してしまったとしてもその成長による更正の可能性を認めてきっちり再教育を施したうえで、社会の側が極力受け入れて彼らの適応と自立を促していくのが理想のあり方だろう。

しかし、こうした考え方とそれによる社会、システムというのはそれを構成する人間それぞれすべてに本能や欲望を制御しより善く生産的な方向へ導くための理性と良心がまず備わっている、という前提があって成立するものだ。現実にはこうした理性や良心のまったく欠落した人間が少なからず生まれ存在し、それらによる悲惨な事件がしばしば起こってしまう。そして、以上の『綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人』などはまさにそうした人間たちが引き起こした限りなく最悪の事態と結果であり、この社会を構成する人間たちが信じ依って立つ理性や良心そのものの脆弱さ無力さをもっとも容赦なく証明し、目下この社会そして世界に生きる人間たちすべてに突き付け続けるものだ。

私にとっては、ひとえにこの事件こそが、たとえ如何なる矛盾やリスクやデメリットを含むものであったとしても、その「死刑」という処罰の手段を決して否定することができない最大の理由にして根拠の一つである。加えて、事件当時には思春期のとば口というような年頃だったこの私に対しておのれの実体験から生じるものと等しい一生もののトラウマを植え付け、司法も含めたこの国の社会のあり方そして世界そのものに対する絶望と不信を抱かせた最初の事例である。実のところ、私にとってはこの事件の判決以降は、死刑制度の是非も含めて司法とそれに対する議論、そして社会の改革とかあり方とかいうものは本当に本気で一切空しい、無意味なものとなったのだ。私にとってはこの世界というのは、つまるところはこの犯人どもを殺せなかった世界であり、ついでに言えば天才マンガ家・山田花子を殺した世界であり、それで十分でありそれに尽きる。世界にはどのような悪や理不尽が存在していて、それを亡ぼすことが叶わないとしても、それに対して毅然と立ち向かい総括し断罪していく、少なくともそういう気概を持った人々がこの世界の中心に確かに存在し力を握っているならば、この先にどんな悪や不条理に見舞われても希望を持って生きていけるだろうと思っていたのを、この事件とその判決は完膚なきまでに否定してみせたのである。これについてはいわゆる「人権派」弁護士のみならず、元から死刑を求刑できなかった検察やその求刑よりさらに目減りした判決で終わらせた裁判官も、そして当初は被害少女に対して「犯人の遊び仲間の不良だった」とかいうデマや憶測、「なぜ逃げなかった」「最初は楽しんでたんじゃないか」とかいうセカンドレイプどころではない妄言を撒き散らしていたマスコミ、ついでに言えばそんなマスコミの情報を真に受けて「悪い友達につけ込まれる方も悪い」「さっさと逃げ出さなかった女の子の方もだらしがない」とか宣っていたうちの親なども同様なのである。

件の彼らについては結局のところ「少年」でありしたがって「更正の可能性」があるという一事のみをもって減科され社会に放たれたわけだが、その彼らに無残に殺された被害者にしても若干17歳の少女、まさに本来その社会から助けられ庇護されるべき「少年」の一人であったはずなのだ! つまり、ほんらい彼らを裁く力と地位を持っていたはずの社会そして世界の大人たちがことごとく、そんな子供の一人だった被害者の彼女の魂に、ついでに言えばこの私にも絶望あるいは失望以外のもので報い、示すことがなかったのだ。当時も、今までも……。そして、皮肉なことにこうした結果は他ならぬ、そんな大人のなかでもとりわけ知性と理性と良心とを重んじ、自身も人一倍恵まれているような大人たちによってもたらされ、維持されつづけているのである。

たしか、この事件の公判当時や後の光市母子殺人事件などでも取り沙汰されていた永山基準ではもっぱら殺害被害者数と犯人の年齢ばかりが挙げられていたが、肝心の(3)犯行態様、執拗(しつよう)さ・残虐性など、(5)遺族の被害感情などいうのは考慮に入れられなかったのか。光市事件ではご存じのとおり遺族男性の奮闘もあってこれらも忖度されたようだが、遡及法のない現在の日本ではもはや再びこの事件での加害者どもを再びこうした裁きの場に上げることは到底望めないわけだ。しかしオウム事件の死刑囚たちへの執行にあれだけ大仰に労力を注ぎ込み、やれ改憲だ元号の改正だ休日の移動だボランティア動員だサマータイムだとか騒いでシステムをこねくり回し国民を振り回せるだけの権力があるならば、どうかそちらの幾ばくかをそそいで、それこそ万難を排し超法規的措置をもってしても、われら国民の大多数の意思を忖度して改めて事件に関わった人間すべての公的な断罪と事件そのものの総括というのはできないものなのか? まあ、たとえば明らかに限りなく冤罪である袴田巌氏の再審請求も突っぱねるような現状だからな。まさしく国民の一人であった、貴重な将来ある子供だったはずの少女や、ましてもろに国家権力によって人生と精神を完膚なきまでに破壊された元青年の命や尊厳など、しょせん国家のメンツに比べれば取るに足らないものなのだろう。

第二次大戦後のニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」というのが国際法上に定義されたが、これと似たような概念は個人の犯罪には適用できないものか。もちろん他者の生命を奪うことじたいがこれ以上ない人権の否定なのだが、人間がその生命を維持して人間として存在し続ける以上は、その存在にはおのずと人としての自我と精神が宿り、ゆえにそれには人間としての尊厳と権利が生じ認められるのである(これを基本的人権という)。したがってそれらを否定し侮辱し弄び蹂躙し破壊することは、人命そのものを奪うことと同等の人権の否定である。まして、その人間の尊厳を否定し侮辱し弄び蹂躙し破壊した挙げ句に死に至らしめること、もしくはそれを目的としてその人命を奪うことは、その倍の罪と罰が伴わなければならない。端的に肉体の殺害と精神の殺害との二重の殺人行為だからである。というわけで自動的にこの二重の殺害行為が成立する強姦殺人および致死などは、殺害人数が1名であっても2名分の人権を破壊したのと同等の重罪、すなわち死刑が科せられるのがむしろ妥当なのである。

そして、他者の天賦の人権、精神の尊厳とその不可分な依り代である肉体とに同時に苦痛を与え弄び蹂躙し破壊し続けること、しかもそれをひとえに自らの衝動や快楽や憂さ晴らしのために行うことは、この社会そして国家とそれを構成する人間たちが依って立つ、人間としての理性と良心の放棄であり否定である。これはすなわちそれを前提とし信頼し共有することによって成立している人間社会および国家の根本からの否定であって、すなわち社会の秩序破壊や国家への反逆に等しい所業であり、まさに偽金作りやテロなどと同様のもので、したがってそれへの罰もこれらの犯罪と同等のものが科せられるべきである。

あと、実際の問題として、更正の可能性といったところで、その更正とはどういったものなのか? 聖書や児童書を読んで感動して泣けるようになることか? 写経や読経に勤しむことか? どこかの寺か修道院にでも一生入って祈り続けるのか? 盆と彼岸と被害者の殺害日のたびに線香を供えることか? おのれの罪を悔いながら人里離れた山奥や絶海の孤島にでも籠もって暮らすことか? そして何より、結婚して子供に恵まれ平穏に暮らしていくという、まさに被害者が健在ならば実現しえた未来の形を平然とのうのうとなぞっていくことなのか?

現状として、たとえばの話、少年時代に学校生活に挫折し職場にも不満、暴力団からも適当にあしらわれて燻っている憂さ晴らしに窃盗や強姦を繰り返したあげくに、通りすがりの就職が決まり卒業を控えてアルバイトに勤しんでいた帰宅中の女子高生を拉致し判十数人がかりで寄って集って強姦し、性器に火のついたマッチ棒を何十本も突っ込んで泣き叫ぶ姿を前に笑い興じ、「なんでもするから家に帰して」と懇願する少女に自慰や裸踊りを強要し、彼女が隙を見て逃げだそうとするとこれまた数人がかりで殴る蹴るのあげくに髪を切り刻み素足にオイルを掛けて火を付け、その後は全裸で柱に縛り付けてサンドバッグ代わりにする、ステレオの音楽に合わせて一斉に拳や蹴りを入れる、歌を歌わせて調子が外れたり途切れたりするたびに殴り付け、苦痛に顔を歪めると「笑え」と命令してまた殴る、それで「鼻と頬の高さが同じ」になるほど腫れ上がった顔を見て「お前でけえ顔になったな」と面白がり笑いながらまたさらにそれを殴る、性器に煙草の吸い殻を押し付けシンナーの瓶を挿入し肛門には鉄棒をねじ込む、食事は大小便とゴキブリ以外は殆ど与えず、やがて衰弱して動けなくなり失禁すると腹を立ててまた暴行、その後は持て余して厄介「モノ」とみなしさらにその罰として相変わらず殴る蹴るにオイルでの放火、あげく最後には賭け麻雀に負けた腹いせに2時間以上ぶっ続けで暴行、痙攣して倒れると「仮病だ」と激高し、すでに瘦せ細り顔面は潰れ腫れ上がり歯は砕け原型をとどめず、肋骨はじめあちこちの骨は折れヒビが入り、傷と火傷の化膿で血と膿に塗れて横たわるその全身を目がけて鉄パイプを繰り返し振り下ろし、そして疲れて放置してサウナに出かけた帰宅後に絶命しているのを知ると、処置に困ってドラム缶に詰めてコンクリートを流し込み埋め立て地に投棄した……というような過去を持つ人間に対して、何もおくびに出さず同じ職場で仕事のやり取りをしたり一緒に昼食を食べたり、近所づきあいをして学校行事や自治会のイベントに共に参加する、というような形で受け入れられるような寛大さや自制心、克己心を保てる「まとも」な人間がどれほど実在するものだろうか? この俗世の大半の人間は自分そして家族や友人、とりわけ娘や恋人の生活と人生と命を優先したいというエゴを捨てられないものだ。したがって、彼らの方でも必然として自分を受け入れてくれるところは己と似たり寄ったりの過去と性根をもつ反社会的な組織や集団ということになるわけだ。

そして、そんな状況下で彼らはやがて疎外感と恐怖心と被害者意識のみを募らせる。実際そうしてかつての彼らは、自分を受け入れてくれない社会の人々、とりわけ青春を謳歌している(ように見える)若い女性に対して虚勢を張りその鬱憤を向け攻撃してきたのであり、そのやり方をふたたび別の通りすがりの他者に繰り返しているだけのことなのだ。そのような、疎外感と恐怖心と被害者意識と引き換えに人としての理性と良心をとうに摩滅させ忘却したような人間たちを、それでもあえて受け入れて救済し再生させてやろうという、愛という名のエゴを超越し卓越した理性に加えて大海のごとき仏の慈悲と尽きぬ天空のごとき神の博愛をもつ存在の居続ける場所……すなわち、神仏の住まう彼岸以外には有り得ないのではないだろうか。

『カイジ』シリーズにもあるとおり、たしかに人間の良心というものは老人の肉体のごとく脆弱なものだ。しかし、それでも、まさに老骨にむち打つがごとくにしてその良心を奮い立たせ理性を保ちつづけてきたからこそ、人間社会というのは曲がりなりにも成り立ち、人類は万物の霊長として在り続けるのだ。だからこそ、その人間が人間であることの唯一にして最大のアイデンティティであるところの理性と良心をかなぐり捨て忘れ去り、間違いなく同じ人間の尊厳を冒涜し蹂躙した人間に対しては、まさにその理性と良心を宗とする同じ人間の手によって、その人間の理性と良心の下に、そして厳然たる理性と良心に基づく手段と方式に基づいて、そういう彼らをまさに人間として唯一の救済場所である神仏の下へ送り出してやることが、むしろ人間という存在の持つ理性と良心、そして尊厳に対する敬意と尊重と肯定に値すると思うのだ。

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