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(更新:2023年9月9日)

【エッセイ】給食の罪と罰 —共産的ファシズムの抑圧および暴力の実例—

クラス全員で給食1年間完食 国分寺中|下野新聞「SOON」 クラス全員で給食1年間完食 国分寺中|下野新聞「SOON」 このエントリーをはてなブックマークに追加

担任の小村敬俊教諭(32)は前任の小山・城南中時代に、食の大切さを訴え、給食を熱心に指導している先輩に感動したという。その時に「体調が悪く食欲がない子の分は、他の生徒が補って残飯を出さない『クラス完食』」を目標としたという。

「学校」という場において、未だにまかり通っている「手段の目的化」案件。当該記事のコメントでも当然否定的な意見が溢れていて、それら以上に付け加えることなど無いのだが、一番的を射ていると感じたコメントが以下。

「残飯をなく」すことで資源の大切さを学ぶ事につながるような気はするが「食の大切さ」を学べるかはよくわからんな。クラスの一体感は高まるとは思うが。
http://b.hatena.ne.jp/entry/235344793/comment/atoh

「クラスの一体感を出してクラス経営がうまくいくように」というのが、本当の目標臭い。「食の大切さを学ぶ」という大義名分でごまかして、「権力者が望むことを読み取り、相互監視によってそれを達成」させる教育臭
http://b.hatena.ne.jp/entry/235344793/comment/karotousen58

結局、これに尽きる。だいたい、本当に「食の大切さ」を知りたかったら、家庭科できっちり栄養学や調理法を学ぶか、社会科で漁港や農場、そして屠殺場にでも実地見学に行った方がよほどそれらの意義を思い知ることができるだろう(その為の授業、義務教育なのだし)。センターで機械的に大量生産されたものを機械的に配られ、さらにそれをまた機械的に消費するだけの行為で、果たしてどれだけ食の有り難みや貴重さを実感できるというのか? そもそも、「与えられたものを全て消費する、使い切る」というだけの、大して創造性も生産性も無い行為が、果たしてもっとも多感な時期の少年少女が33人掛かりで、それも一年も費やして取り組むほどの価値のある事業だと、本気で全員が思い込んでいるのだろうか?

私の小学時代(中学以降は給食は無し)の場合、給食は学校の給食室で作っていたからそう不味くはなかったとは思われるが、それでも、ペカペカのブリキ調の器に盛られた、薄く水っぽい味しかしない文字通りのキャベツときゅうりの塩もみに、中華風の餡かけとコッペパンとマーガリン、そして三角パックの牛乳とかいうちぐはぐな組み合わせの献立を先割れスプーンで食べるとか、「ソフトめん」とか称するべたべたの煮すぎたうどん状の代物とか、そういうものを出されて「食の大切さ」とか言われても、いささか釈然としなかったりする(現在は状況は改善されているのだろうか)。うちの甥っ子など、目下やや小食&偏食気味なので、後々こんな指導に運悪く当たって要らん苦労を味わわずに済むことを切に祈っているところだ。

「別に食べられない生徒に無理強いしたわけじゃないならいいじゃないか」という意見も有るが、そのクラスでの権限や権力の行使を一手に担っている立場の「教師」が立案企画したプロジェクトと言う時点で中学の「生徒」にとっては既に拒否しがたい「命令」に近いもので、さらにそれがクラス全員の一致協力無くしては絶対に達成不可能、ということになれば当然、クラスの成員間での監視や圧力が自ずと発生する。また、その目標があまりに単純で画一化し過ぎているものだと、どうしても生徒個人の達成度や能力差が露骨に出てしまう。この事例ではどうしても生来小食だったり、アレルギー体質の生徒が内心プレッシャーを抱き肩身の狭い重いをするだろうし、その事が生徒間の力関係やヒエラルキーには影響を及ぼさない、と断言できるだろうか?

なにより、そもそもの疑問として、公立の中学校のクラスというこれと言った客観的な選択基準も無く集めた有象無象の集団に「一体感」など持たせることが可能なのか? そもそも「一体感」なるものが必要なのだろうか? それこそ、後に社会に於いて最低限必要な知識をきっちり叩き込んでさえいれば、集団での協力、協調とか、目標達成のための手段とか努力の仕方などは、それこそ社会やプライベートでの「実地」で身に付けていけばいいし、むしろそれ以外では大して身にならないと思う。少なくとも「上からの強制」では……。

思い起こせば、この私など、「生来の気質、体質に全く恵まれず、故に人一倍真面目に努力しても人並みにも追いつけない」というレベルの資質で、したがってこの手の集団案件ではたいてい全く悪意無く、むしろ善意で力を尽くしていても結果としては全体の足を引っ張ってしまう、という存在であった。もちろん、小学校の給食の時などは昼休みや掃除の時間に突入しても出されたものを食べきれない、ということはしばしばだった(決して、内職などよそに気を取られていたとか、盛りつけの加減が出来ず多すぎたとか、ましてわざと格好つけてちびちび食べていた、なんてことは断じてない)。

ある日など、それでまた皆が既に食べ終えて片付けが済んで席を立っているにも拘わらず、私の机にのみまだその昼の給食が半分近く残っていることに焦り、必死で残ったおかずやらパンやらを精一杯頬張っているところへ、クラスメートに次々と「食卓」を取り囲まれて「おい、いつまで喰ってんだよノロマ!早く喰えよ!」「片付かないだろ、邪魔なんだよ!」「お前一人のせいでクラスみんな迷惑してるぞ!」とか一斉に罵声を浴びせられ、慌てて必死で詰め込んだ口に牛乳を流し込むと「汚えな!ちゃんと食べろよ!」と小突かれ、結局、それ以上は限界だと思って食べ残しを片付けようと席を立ったらたちまち「おい、残すなよ!ズルすんな!」「ちゃんと席にもどって、ちゃんと全部喰えよ!」とこれまた次々に追いつかれて食って掛かられ、気がついたら何故か教壇の近くに追い詰められていた。

そのうち、誰かか、数人か、勢いに任せて押し寄せたか詰め寄ったか、あるいは突き飛ばしたか、とにかくその勢いで私の体が側に有ったオルガンに被さって体重が掛かり、バランスが崩れ、そのオルガンがたまたま近くに居た女子の脚を目がけて思い切り倒れた。その女子は痛みとショックで向こう脛を押さえてうずくまって泣き出し、他の女子が次々に彼女の元へ駆け付ける一方、私は床に突き倒されて取り囲まれて罵声を浴びせられながら頭やら顔やら腹やら、とにかく体中を寄って集って思いっきり踏んづけられ蹴り飛ばされていた。……思えば、まさにその時は、クラスメート一同は確かに「一体感」を持ち、そして皆団結していたのだ。クラスの規律を破り輪を乱したこの私を総括して制裁を加える、という崇高なる「目的」の下において……。

その後といえば、私には「自分の我が儘で給食をのろのろ食べていて、一人だけ残そうとするズルをやらかし、挙げ句反抗して暴れてクラスメートに大怪我をさせた奴」というレッテルがクラス内外に渡り、卒業までついて回ることになるのだが、それはさておき、とにかく、むしろ「食」の大切さを教えたかったら、少なくとも現行の「給食」というか学校と言う場での食事の在り方、というのはむしろ害にしかなっていないような気がする。さらに言えば、学校で下手に集団への適応力とか一体感とかの、「関係(性)の強制」ばかりしていると、かえって健全な自我や自分の意志というものが上手く育たず、それこそ社会に出てからの組織への適応力や意欲が著しく削がれるのではないかと。むしろ、多感な子供時代や学生時代にこそ自由にやらせておいて、自分の適性なり資質なりを自覚させて育てるべきである、と思う。

蛇のごとく粘着だが、羊のごとく惰弱。

1件のコメント

  1. こちらで取り上げている記事に関する、関係者の方々のプライバシー等に鑑みてコメントをいったん削除いたしました。ご了承よろしくお願いいたします。

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