[amazonjs asin=”B00U1KYUY6″ locale=”JP” title=”週刊文春 2015年 3/19 号 雑誌”]
川崎の中1生殺人事件について、作家・林真理子が今週号の「週刊文春」の連載エッセイに書いた内容が非難されている。
川崎リンチ殺人、被害者の母を責め立てた林真理子氏のエッセイの暴力性(武田砂鉄) – 個人 – Yahoo!ニュース
林氏は事件について先述のように記した上で、今のお母さんたち全体の議論に広げ、
「私はやはりお母さんにちゃんとしてもらわなければと心から思う」
「いつまでも女でいたい、などというのは、恵まれた生活をしている人妻の余裕の言葉である。もし離婚をしたとしたら、子どもが中学を卒業するぐらいまでは、女であることはどこかに置いといて欲しい」と続けた。なぜ、ここまで暴力的な言葉を重ねられるのだろうか。
自分で確かめることができない第三者からの伝聞情報で特定個人をこれだけ断罪し、否定し、また「自分とは違うのだ」とあからさまに排除して行こうという偏狭さこそ、こうした犯罪が起こる土壌を作る遠因になっていると私は思う。
原文を読まずに非難するのは、この林真理子の所業と同じ事になってしまうのは承知だが、それでも、上掲の記事に引用された部分だけでも突っ込みどころがあまりに多すぎる。
確かに、あの事件の当事者たちの置かれた環境はかなり「特殊」ではあったようだし、その彼らの特殊性が事件の本質に抜きがたくあるとも思う。そして、当該のエッセイで彼女に槍玉に上げられている被害者の母親にも、漏れてきている情報を見た限りでは私もそれなりに思うところはあるし、自分のキャパシティを超える数の子供を作ってしまったあたりも含めてある種の弱さや欠陥を抱えた人だろうとは思う。そして、その弱さや欠陥が最悪の事態を招く要因らしきものの一つになってしまったのも否定できない、とも思う。
しかし、それでも、仮にも、育ち盛りの子供たちに加えて要介護の老いた両親を抱え一人で働き続け、挙げ句にその我が子の一人を残忍に殺されたばかりで計り知れない絶望と後悔と自責のただ中にいる、何の特別な権力も後援も持たない無名の一女性を、よりによって、生来の才能と強運とによって、地位も影響力も、さらに伴侶にも経済力にも恵まれてきたベテラン有名作家が、限られた情報だけを元にして、全国に発売される大手老舗雑誌を通じて一方的に非難めいた意見を広める、というのはどうなのか? まさか、「誰も触れない聖域にあえて切り込んで見せた私ってやっぱり鋭い、賢い! 常識や良識に囚われている世間の大半の凡人とは違うのよ!」とか内心思い込んで……いるんだろうな、きっと。こんなエッセイを敢えて載せてしまう「文春」からしてそういうスタンスの雑誌だし。
[amazonjs asin=”4167476215″ locale=”JP” title=”不機嫌な果実 (文春文庫)”]
まさに、「恵まれた生活をしている人妻」が余裕を持て余して不倫にうつつを抜かす小説を臆面も無く書くような作家の想像力のほどがうかがえる記事ではある。ペンは剣よりも強し、とはよく言うが、つまりは剣以上の暴力にもなり得る、ということだ。その事によりによって筆一本で成り上がり、そしてそれ一つで何十年も世間のど真ん中を渡ってきたような人がこれほどまでに鈍感でよいのだろうか? かの被害者の少年は加害者たちのカッターによって無残に切り刻まれて命を奪われたが、その母親は目下こうして、本来この手の想像力を最も備えているべき人々の筆によって、既に打ちひしがれてどん底にある精神を好き放題に切りつけらて叩かれ続けているわけだ。
——ある小説の一節より
「……でもね、このことだけは記憶しておいてくれませんか。強い人間ってのは、自分が強いことさえ気づかないでいられるけど、弱い人間は、いつだって自分の弱さを見せつけられながら生きていかざるを得ないんです。だから強いひとが弱い者を見るとき、どうしたって見落としてしまうものがある。ましてやマスコミなんて権力を持っちゃった人間なら、なおさらね。もしすべてを明らかにするのが報道であり表現であるというのなら、それは強者の論理に傾きがちになることを、心しておいてください」(※太字筆者)
[amazonjs asin=”4488490077″ locale=”JP” title=”Jの少女たち (創元推理文庫)”]