遊び半分のからかいが憎悪に変わった瞬間を見た日 – 仕事は母ちゃん
ところが私がからかわれているというのがどういう経緯だったか、担任の知るところになりました。そこで担任がどうしたかと言いますと。帰りのホームルーム でこのことを取り上げて、私をからかった男子らに名指しで「これからはこんなことはやめるように」と言ったんですよ。男子にとっては吊し上げ同然です。悪いことをしたんだから…というのはその通りですが、こんな弁解の余地もないやり口じゃあね。
担任は叱ったらシュンとして大人しくなるだろうと思ったのかもしれませんけど、男子らは直接担任に反発しなかったけど、私を逆恨みするようになったわけで す。大人だって神様じゃないんだから対応を誤ることはあるわけですが、この件は私にとって最悪な結果になったわけです。担任はこれで問題が解決したと思ってたでしょうけど。
小学生のころに男子数人から容姿をネタにからかわれ続け、本人はあえて無視を決めていたものの、その事態を知った担任がクラス全員の前でその男子たちを名指しで説教した結果、ターゲットにされていた当人の方が男子たちの逆恨みを買い凄まれて脅された、という事例である。
いじめ自殺などが話題になるたびに、「死ぬ前に誰かに打ち明けてくれれば……」とか「一人で悩んでいないで周りの大人に相談して欲しい」というコメントは必ず出てくるが、まさに、そういう科白を言いそうな大人が対応した結果がこれである(このケースでは、そもそも当人は「相談」すらしていないが)。そして、私はこの記事を一読して、この私自身にかつて起こっていた事例をそのまま書き写したのだろうかと錯覚した。この記事を書いたブログ主はすでに成人したお子さんがいるぐらいの年代の方だが、「いじめ」と呼ばれる子供の行う暴力に対するある種の「大人」の(危機)認識というのは40年前も25年前も、そして現在に至るまでほとんど進歩が見られないようだ。
私の場合、上掲のような展開の後にどうなったかというと、「からかい」という言葉の暴力にさらに即物的な暴力が加わっただけだった。毎日のように頭か顔か腕か腹か脛か足かのいずれかを殴られるか蹴られるか、壁か床か机かロッカーかとにかく間近な堅いもののいずれかに叩き付けられるか、という状況をあらためて担任に訴えても、「すぐに先生にばかり頼ってこないで、やられたらやり返しなさい。他の女子はみんなそうしてるでしょ(※他の女子はそもそも最初からそういう事態には見舞われていないのだが……)。もっと強くなりなさい」とかえって諭されるだけなので、その通りに必死に抵抗を試みても、かえって面白がられ喜ばれてさらにエスカレートする。そこでまた訴え出ても、「幼稚園生じゃあるまいし、そうやってムキになって大騒ぎするから酷くなるんでしょ。どうして他の人みたいにもっと上手くあしらえないの?」と却ってこちらが責められる。というわけで、なんとか「他の人」の態度らしきものを観察して、必死で真似て「あしらって」みたりすると、「生意気だ」「おかしい」「つまらない」とか逆ギレされて、結局、頭と顔と腕と腹と脛と足とを寄ってたかって殴られ踏みつけられ、壁か床か机かロッカーかとにかく間近な堅いもののいずれかに叩き付けられ、それが泣いて立ち上がれなくなるまで続き……そして、また振り出しに戻る。親に訴えてもほぼ同様であった。その果てしない繰り返しが私の小学校生活の大半を占めていたのだ。
中学入学以降もそのループがさらに質量ともに増幅された状態で続いたのだが、それがようやく断ち切られたのは、当時の学年主任が当の下手人たちに対して、即物的な手段でもって制裁に乗り出してくれたことからだ。そのおかげで以降は少なくとも即物的な暴力は収まった。冒頭の事例に戻れば、そもそも、小学校高学年にもなって女子に、その中でも寄りによって一番弱そうなのを選んで寄ってたかって「からかう」なんてことをやってる時点ですでに生育過程が著しく歪んでいるわけで、本来ならその当人たちの親を呼び出して徹底的に反省と改善を迫るべきなのだが。
だいたい、「いじめ」問題が採り上げられるたびに、助言にせよ激励にせよ擁護にせよ叱咤にせよ、もっぱら「いじめ」被害者の方ばかりに焦点が当てられてはあれこれ注文や忠告を投げつけられるが、その中のいったい誰が当のいじめ被害者たちを実際に護り、その現実から救い出してくれるというのだろう? 彼らは言われるまでもなく暴力と迫害の日常に否応なしに対峙し、疎外と孤立の日々を堪え忍んで過ごしているのだ。熊の檻に一緒くたに閉じ込められている丸腰の人間に対して、遠巻きに眺めていくら声援や助言を送ったところで何の意味もない。まず、真っ先に当の人間を檻から手を引いて救い出すか、熊のほうを総掛かりで檻から引きずり出して別の場所で徹底的に調教しなおすか、いずれかしかない。それを実行する義務があるのはほんらい当の親たちであり教師たちであるはずなのだが、その肝心の親や教師たちの大半が上掲のような対応しか取れない、そもそも事態の深刻さを認識できない、というものだから、どうしようもない。
鎌倉市教委、図書館ツイート削除を検討 理由は「不登校を助長する」からではなかった : J-CASTニュース
それは、ツイートの中に、「死ぬほどつらい」「死んじゃおうと思ったら」という言葉があることだ。
26日のうちに、市教委の各部署から10人ほどが集まってツイートのことを話し合うと、「これらの言葉は、死を連想させる」としてツイートを削除すべきとの意見が数人から出た。つまり、ツイートを読んだ子供たちの自殺を誘発してしまうのではないか、という懸念だ。
子どもが自殺まで追い込まれる気持ち(自分の場合) – Togetterまとめ
せめて、当の子供たちに対してきちんと声を上げその上で実行して、具体的な一時避難場所を実際に提供しようとした側に対して、以上のようにズレた意見を突っ込んでくる「大人」が相変わらず絶えない。だからこそ、実際に檻から出たくとも出してもらえず、かといって放置された檻の中の獣たちにそのまま好き放題にされ続ける子供たちにとって、ゆいいつ残された手段が即物的に自分の存在を彼岸にワープさせること、イコール「自殺」ということになってしまうのだ。
とにかく、一にも二にも「いじめ」加害者に行うべきは中途半端な説教や介入ではなく、まずは具体的な制裁であり徹底的な再教育である。そして、「いじめ」に遭っている子供たちに必要なのは、抽象的な気休めの励ましや精神論ではなく、具体的かつ現実的な避難対策とその実行以外にない。当のいじめ被害者の子供たちも、現状として大人をたいして当てにできない以上、命がけで逃げ切るか、文字通り差し違える覚悟で(教師や親に対しても!)立ち向かうかしかないだろう。じつに割に合わない苦労であり不毛な労力であり、時間の浪費であるとは思うが、それでも自殺よりは遥かにローリスクにしてハイリターンである。