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(更新:2018年3月4日)

【感想・批評】『おそ松さん』2期21話覚え書き—労働と選別、そして愛—

先日放映された『おそ松さん』2期21話の「BANANA」「ニート矯正施設」などの各エピソードだが、いずれもこれまでの2期『おそ松さん』の中でも随一の問題作だったと思う。とりわけ「BANANA」については実在の高収入求人サイトの宣伝カー&CMソングを真っ向から露骨にパロっていたこともあってネガポジ双方向の様々な感想や考察が飛び交っていたのだが、私としては実は今のところ、全体としてかなりポジティヴな解釈へと落ち着きつつある。

「BANANA」にもあるように、一見ポップなメロディとキャッチーなビジュアルを介して目下堂々と真昼の繁華街で広められる「高収入」求人の実態というのは、すでに大方に知られている通りに要は「売春」である。説明するまでもなく、この話におけるトティ美のようなそこいらの平凡な女性が「一発逆転」を目指し大金を得るためには時に自らの性含めた身体そのものを差し出し、精神や尊厳を削って雇用主や顧客の欲望に応えなければならないのである。そして実際はそのようにおのれを犠牲にしてまでも文字通りの「一発逆転」を果たせることは極々まれであり、果たせたところで大抵は一時のあぶく銭として自らの人生と尊厳もろともにすべて失ってしまうわけだ。しかし、このような構造はなにも女性にとっての売春に限ったことではない。むしろこの社会において特別な才能や資産を持たない殆どの人間にとっての労働というものは己の心身と人生の大半を切り売りしてようやく果たせるものであり、そしてそれを「大丈夫、すぐに慣れるから」あるいは「大人なんだから」「これぐらい我慢しなきゃ社会ではやっていけない」などと言いくるめられ、半ば「洗脳」されながら当の社会に捧げて殉じていかざるを得ないものだ。

しかし、ここでいち早くそのような現実社会における「労働」の本質を悟ったトティ美は唐突に発想の転換を行い、しかもあっさりと実現させてしまう。その後の展開がいちおうは「事実」なのかトティ美ひとりの幻想に過ぎなかったのかはあえて判じにくくなっているが、ここで注目したいのはいずれであったとしてもそこで描かれた展開と結末がトティ美ひとりのみの願望だったのではなく、たとえば渋谷のギャル達や原宿や新宿の学生や浅草や秋葉原のサブカル系女子?や丸の内のOLやお台場に集まる腐女子or夢女子など、あらゆる属性や階層を超えた女性たちと共有しうるものだったということであり、さらにはそれがこれまた市井の様々な属性や世代の人々に大いに受け入れられ共感されるものだったということである。

ここでトティ美は社会の側から一方的におのが存在を選別され消費されることを拒否し、内実や手段はどうあれ主体的に自身を演出し売り出すことを選択したのだが、しかしそれはたとえば目下、現実の主なアイドルグループのような専らファンやプロデューサーや事務所等々の「選別」によって抜擢され格付けされたうえで提供されるようなものとはむしろ内実も手段もまったく真逆なものだ。トティ美は「みんなと差を付けよう〜♪」などと歌いつつも同じステージで踊る面々にはみな同様のバックダンサーとして立場や属性を問わず受け入れ、それは本来おのれらを「選別」し搾取する側であったはずの店長ですら同志として扱われる。その上でそんな彼らが繰り広げるパフォーマンスそしてメッセージというのはこれまた性別や所属、階層を問わず支持されるものだった。つまりトティ美たちは社会の有象無象に対しての欲望や要求におのが身で奉仕するのではなく、自身のそれも含めた願望つまり社会の皆それぞれに相通じる夢(それがたとえ大金を即行で手に入れて贅沢に遊び暮らしたい、セレブな生活がしたいとかいう身も蓋もない本音であったとしても)それを具象化しそれを社会の皆それぞれに平等に提示したうえでその皆すべてとまとめて共有することそれ自体において、自身の成功も実現させたのである。

しかし、本来の現実社会そして『おそ松さん』の世界というのは、今までに観てきたとおりに社会や集団の様々な局面において有象無象の個人が絶え間なく容赦なく「選別」され続けるところである。表向きには個性とか多様性などが標榜されてはいても、その実その個性というのは社会や集団の意向に従って否応なしに格差づけられ選別される。そして必死に時に体を張って自己を表明しても、社会や集団にとって無益だったり有害と見做された個性や自己主張などは「イタい」「ウザい」「ダサい」「あざとい」「ライジング」等々と揶揄され断罪され黙殺され、時には石臼を叩き付けられて放逐されたり筏に括り付けられて海の彼方に追放されたり、文字どおり戦力外通告と称してこれまた放逐される世界である。そして、当の六つ子たちなどはそんな「選別」や排除を自分たちの間で繰り返しておきながら、実社会からの「選別」を拒否して就職そして労働を拒絶する代償に社会や異性から存在を排除され黙殺され底辺に追いやられるという皮肉に陥り、ひたすらおのれの存在や尊厳の承認を求めて個性を必死に身に付けアピールすればするほど、その個性、自我自意識によって疎外しあい断絶するというジレンマに囚われ続けている。

しかし、言うまでもなく実社会の人間たち大人たちというのは、自分がモテたいとか認められたいとか褒められたいとか注目されたいとかの動機で日夜働いているのではない。その殆どはひとえにおのれやおのれの同胞血縁など愛するものたちがただ生きて存在し続けるために、その心身と尊厳の大半を社会に捧げるのと引き換えにまず衣食住を確保しているのだ。この「BANANA」で紹介されているような仕事に限らず、ジャン・リュック・ゴダールの言葉にあるように人間世界とりわけ資本主義社会における「すべての仕事は売春」なのである。現に、かの六つ子たちの両親である松野夫妻などはまさにそうした社会の「大人」のひとりとして人生の大半をそんな社会の中で費やし、あの古家を維持することで息子たちを養ってきたわけだ。そして、この『おそ松さん』2期ももはや終盤に差し掛かり、六つ子とその両親をはじめとするあの世界の人々にもリアルな社会からの要請がいよいよシビアに迫りつつある。いつまでも内輪ではしゃぐな、周り(社会)に合わせろとプレッシャーをかけられ、支払いはすでに迫っている。かつてスタバァで傍若無人に暴れていた六つ子たちだが今となっては日松屋で一喝されても押し黙るしかできない。互いに足を引っ張り合いつつも何やかんやでモラトリアムを維持してきた彼らにもその終焉の足音が聞こえている。そして遂に松野家の居間には文字通り現実社会からの「矯正」のための使者が送られてくるのである。

「お一人様なら無料」というその赤紙の送り主のセールスを『一人「選別」しろ』というメッセージに受け取った六つ子の母・松代は当の六つ子サイドのチョロ松も加えて葛藤しまくるのだが、もちろん容易には結論は出せない。今回の「選別」はかつての扶養面接や戦力外通告、そしてセンバツなどのごとき松野家じたいとその世界の都合による茶番ではないのだ。この現実社会のために我が息子たちを役に立つ人間に「矯正」しろ、そして社会にその存在と尊厳そのものを自ら望んで売り渡せる人間に仕立てて送り出せ、ということだ。もちろん、母・松代も父・松造も自分たち親としての対応が明らかに間違っていて、息子たちにものちのち有害であることは承知している。現にこのまま息子たちが自分たち両親の働きに依存寄生したままでは、彼ら息子たちは異性から選ばれることも自ら獲得することもままならず、自分たちの老後や孫の保証も到底望めないだろう。

だが松代も松造も、今回は息子たちの誰もいずれも「選別」しないという結論に至る。松造に関しては息子たちに上手いことおだてられノリで丸め込まれたというところが大きいが、以前の松代による扶養面接と異なり、六つ子たちが選別する側の要求に無理に合わせるのではなく松造と自分たちの嗜好や願望を、同じリアルな等身大の男として共有し得たのが決定打だろう。そして母の松代のほうもそんな彼らが夫ともどもはしゃぐ姿を見て意外な行動にでる。この松代の選択は「BANANA」のトティ美が採った在り方に通じるように思える。構成員それぞれの立場や属性、なにより個性の相違による見解や評価の齟齬はあったとしても、松代はそれらを踏まえたうえで彼らをあえて「選別」せず、そろって平等にその存在を肯定し受け入れ、彼らともにモラトリアムという名の祝祭に身を投じるのである。たとえその祝祭そしてモラトリアムがほんの一時のものであり、その将来を鑑みれば「ちゃんとした」親そして大人としての判断からは確かに逸脱していたとしても、むしろ松代そして松造は身をもって息子たちにおのれらの世界に対する在り方を示したのだ。要は、たとえ世間に認められずむしろ否定されるようなことであり、それがおのれの破滅に繋がりかねないものであっても、その選択は社会や周囲の評価や強制、まして洗脳などによるものではなく、自分たちの真に望むものであるべきで、まして自分の真の願いや尊厳を決して犠牲にするべきではない、と。

もっとも、当の息子たち、六つ子どもにはここまでの両親の想いが通じたとは今のところ思えないが、これまでに延々とおのれら兄弟間でのパワーゲームに自ら消耗してきた彼らが、生みの親にだけはいずれも究極に絶対的に肯定されているという事実に触れたことは彼らの今後に大きな影響を及ぼしていくだろう。松代と松造が示した在り方というのは実は「センバツ」の展開にもあったとおりに、現実においてはもっとも苛酷な道なのだ。現実社会では何をおいてもまずどこかに属して働かなければ存在をまともに認められず衣食住すら確保できず、この世に生きる以上は何らかの形でおのれの存在を犠牲にしているものだ。しかし、それでも松代と松造はその現実を踏まえた上で、たとえ我が身を何らかの形で犠牲にするとしてもそれは自分の意志と願望による自覚的な選択であるべきだと考えているのだ。なぜならまさに自分たちはそうした他ならぬ自分の意志と望みによって互いを伴侶とし、そしてその間に生まれた息子たちの成長のために、自分の意志と望みによっておのが人生を捧げてきたからだ。そして、そうしたおのれの意志と望みによっての主体的な選択こそはまさに「愛」と呼べるものである。

かの岡崎京子は代表作『pink』のあとがきにおいて前出のゴダールの言葉を引用しつつ「そしてすべての仕事は『愛』でもあります」と続ける。「BANANA」のトティ美たちなどはまさに「売春」でもあり「愛」でもある仕事を果たしたと言える。そして松代と松造もお互いや息子たちへの「愛」のためにそれぞれの仕事に勤しんでいる。もちろんそれらの彼らの選択がこの現実においては自身の幸福や安寧につながる保証はまったくない。現に『イヤミはひとり風の中』のイヤミなどは「愛」を知り得たことによっていっとき労働に身を投じ周囲にも認められるのだが、その代償にすべてを失ってしまう。松代と松造は20数年かけて育てた息子たちが揃いも揃ってニートの穀潰しであるという結果に直面している。トティ美たちの成功にしてもおそらく決して長いものではないだろう。しかし、いずれもそれが自身の意志と望みによる主体的な選択である以上は、彼らにはおそらく後悔はないだろう。なぜなら彼らにとってそれらが主体的な選択であった以上は、少なくともおのれの尊厳だけは失われていないからだ。

したがって、我らが六つ子たちも今後はやはり一生クソ童貞ニートのまま両親の元でのモラトリアムに殉じるのか、否応なしに「大人」として我が身を犠牲にして社会に所属していくのか、それともトティ美たちのように上手いこと社会のシステムの隙を突いて新たな道を切り拓いていくのか、私もファンとして彼らの選択を見届けたいと思う。ただし、いずれにしてもその選択というのは1期最終回の「センバツ」のような反則技ではなく、ひとえに彼ら自身の意志と望みによる主体的な選択、すなわち「愛」の元によるものであって欲しいと切に願っているところである。

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蛇のごとく粘着だが、羊のごとく惰弱。

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