5月 072017
 
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作品内容のネタバレを含みます。

吉田秋生『海街diary』について、以前こちらの記事でいろいろと思うところ(というかほとんど手前勝手な愚痴)を書いていたりして、それに対しては大変貴重な忌憚ないご意見もいただいた。

【感想・批評】「正義エイリアン」への恐怖 —吉田秋生『海街diary』への違和感—

世間一般のまっとうな感覚や見識からすれば、この私の彼のごとき意見というか愚痴などは明らかに見当外れの酔狂な少数意見だろうし、それがもっともであり当然だとも思う。……実際、この『海街diary』が私の手前勝手な感想や感覚を抜きにしたところで、それはそれとしてやはり傑作であるという認識は揺らがないし、まして世間でのそうした評価がなんら揺らぐわけでもなく、そしてそれはまったく正当であり、したがってそういう感想を抱いてしまう私の方にやはりもっぱら非があるのだ。……しかし、それを踏まえた上で最新刊の『海街diary』8巻を読んだところ、いくつかの件に対して再びどうにも抗いがたい違和感というか、正直なところ不快感に近いものが出てきてしまったので、ファンの方々には恐縮だが吐き出させていただきたい。

ご存じのとおり、この第8巻ではヒロイン四姉妹のうちの三女・千佳の妊娠が発覚して何やかんやあった後に、千佳の交際相手で勤務先の上司、スポーツ用品店長にして登山家の浜田との結婚がめでたく(?)決まり、それを受けて、再婚して北海道に離れて住む上三人の母親から結婚祝いが贈られてくるのだが、それに対する当の娘である三姉妹たちや親戚のおばさんの対応があまりに一方的、というか断罪的に過ぎると感じた。確かに大方の「一般常識」やごくまっとうな母子の感覚や情からすれば、贈り物の内容含めてこの母親の反応というのは、大船の大叔母さんの言うとおり、初めて妊娠して結婚するという実の娘に対する気遣いとしては配慮や愛情に欠けていると見なされてもやむを得ないだろう(確かにシャケはせめてカット済みの方がいいよな)。

しかし、それでも、今まで熱心そして丁寧に『海街diary』の一連のストーリーや背景を負ってきている読者ならばなおのこと、ここであえて一辺この母親の方の立場や主観で一度想像してみていただきたい(少なくとも、この私は考えずにはいられなかった)。三姉妹の母親というのはそもそも厳格な教師の両親とりわけ母親(姉妹たちの祖母)の元で一人娘としておそらく相当に抑圧されて育ち、長じて婿養子に迎えた夫には借金を作られた上に若い女と浮気して妊娠させた挙げ句の離婚、三人のまだ幼い娘とともに取り残され、その後再婚と引き換えに母親に娘たちを「奪われ」、いらい長じた娘たちにはそれらの当時の苦労やら葛藤やらを少しは理解して斟酌してくれるどころか、たまに顔を合わせる度に自分たちを「捨てた」とけんもほろろに非難され、もしくはぞんざいな態度や扱いを取られ続ける……確かに自己責任、自業自得ではあるのだが、まさにそうした「正論」で切り捨てられ、だからこその負い目や引け目も一層あるわけで、そういう状況において、それこそまっとうな「母親」としての情や配慮をそうした娘たちに対して持つことができるのかどうか。なにより、そういう立場の母親に対してそういう情や配慮を求める権利が、そんな母親をそちら側でも常に疎外して、ろくに手も差し伸べて来なかった娘たちや身内にあるのだろうか?

「母親」として元からまともな期待も尊敬もされていない、そもそも存在意義を認められていない、少なくとも(作中では)そのような意志やリアクションは殆ど表現されても与えられていないのに、「母親」としての義務や振る舞い、そして愛情だけは要求されるという、はっきり言って理不尽ぶり、正直この私にはそのように感じられてしまったのだ。多少突っ込みどころはあっても、仮にも遠く離れて暮らす母親からのたまの厚意に対しての反応が、終始ダメ出しと呆れと文句しかない、せめて一言でも「まあ何か送ってくれただけでもありがたいんだけどねえ……」くらいのエクスキューズはあってもよい、むしろあるべきではないか。加えて、何だかんだでその贈り物のトウモロコシやらシャケやらは口に入れてむさぼり食っておいても、言及し感謝もするのはもっぱら大船の大叔母さんの作ったちらし寿司やらリンゴとトマトのすりつぶしやらの方なのだ(だいたい真夏だったらりんごだって季節外れだろう)。

もっとも実際に姉妹たちの世話や後見を親身にしてきたのは祖母に次いではこの大叔母なわけで、姉妹たちにすればそちらの信頼や感謝が大きいのは当然なのだが、しかしそれを踏まえるとなおさらその輪からひとり「疎外された一族の女」である母親の居たたまれなさがより浮かび上がってきて仕方がない。曾祖母から祖母と大叔母を経て、生さぬ仲の孫娘にまで伝えられともに賞味する「とまとちゃんつぶし」の系譜のなかに、ひとり母親の存在はない。そして目下の、母親が曲がりなりにも自身の意思で選んだであろう土地の名産は一族の女たちから「相応しくない」として無下に扱われる。彼女たちは一族の「恥」であり「落ちこぼれ」である母親の居場所を否定したのである。母親の方は娘たちの居場所である鎌倉の古家を売る提案を引っ込めて、その庭からの手製の梅酒は喜んで受け取っていたというのに(遠路、電車や飛行機に乗って帰るのに「重いし割れそうだから運ぶの面倒とか、一言も言ってないよね?)

そうして、突き詰めればこの母親の立場やパーソナリティを含めた現在の一族の空気、状況を作り出したのは他ならぬ、姉妹たちのすでに亡き祖母に違いないのだ。この『海街』の主たる舞台である鎌倉の家とその世界は、一族の長姉、大刀自として君臨し続けたであろう祖母とその強力な支配下にあった大叔母、そしてそんな女たちに結果として囲い込まれた三姉妹たちの有形無形の結束によって造られた「理想」世界であり、そんな女たちの世界から「失格」の烙印を押され続けた母親にはいずれ居場所はなく、そしてこの物語の摂理からしても、鎌倉の地、そして物語そのものから逃避し、除外される以外の術はなかったわけだ。ヒロイン末妹のすずなどは、大声で泣き喚く自分を受け止めてくれる姉たちや「つらいことや困ったことがあったら話しなさい」と言ってくれる身内の「大人」は現れてくれたが、この母親にとっては他ならぬその身内たちがおのれを抑圧し疎外する「元凶」ではなかったか?

しかし、たしか第2巻での祖母の七回忌の場面では、母親と長女の幸との連れだっての会話などでそれなりに互いの立場を理解し合い、幸などは母親に対して「この人も『娘』だったんだ」とか思い至る場面などもあってしみじみ感動していたのに、それをなぜこの期に及んでまた、この母娘の関係を後退させるような、また殊更に母親を「悪役」に仕立てようとする展開にしたのだろう? 物語中では何度もありきたりな「家族の絆」という幻想や常識を否定するようなメッセージが打ち出されているのに、肝心の四姉妹たちとその周囲がもっとも保守的な血縁の絆、加えて恋愛至上主義に収斂されてしまいつつあるように見える。そもそも妊娠そして流産の危機がきっかけでようやく結婚とかいう展開からして何万回もあったようなネタだし(だいたい、一回りも下の職場の部下の女の子に手を出しておいて、妊娠も防げず予測できないような男だから登頂も失敗するんだよ!とか思ってしまった)。結局はこの物語も、王道ではあるが保守的な「家族の絆と再生」の枠組みを出られないまま消費されてしまいかねない、という危うさを禁じ得ない。元より、この物語は自力で梨や焼肉もとい梅酒を賞味できるような力と運のある人々のためのもので、梨や焼肉の盛られた食卓や梅の成る庭からはあらかじめ放逐され疎外された、不運で劣ったかつての子供たちは眼中にはないのだろう……そして、そんな世界に隠然と君臨し続ける見えざる元凶というのが私に言わせれば、他ならぬ三姉妹たちの祖母と、そして「優しさ」と他ならぬ実の娘(すず)の存在という「絆」を免罪符に、この世界から繰り返し許され続けている、彼女たちの父親なのである

(ついでに言うと、マサのdisられハブられっぷりもますます酷くなってるし……ある意味いちばん素直で真っ当なリアクションしかしていないのに)

……ここまで書いておきつつ、作者は当然のこと、なによりまっとうな『海街』ファンの方々には迷惑千万な話だろうが、何だかんだで彼女たちの行く末は気になるので、結局はこうした違和感を引きずりつつも最終話までは読まざるを得ないだろう、ということだ。本当に面目ない話ですが……。

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  6 コメント to “【感想・批評】吉田秋生『海街diary』への違和感ふたたび —不在の脅威、真の元凶—”

  1. 海街に対して持っていたモヤモヤ感をこうして文章にして読めることができてありがたいです。
    作者の根本的なテーマに母子関係があるのではないかと思っています。
    そこではいつでも母は加害者でありそして子供は力のない被害者であるという図式を感じます。

    特に母の未熟さと子供の大人にならざるを得ない感じ、欲望のままの母と抑圧した子、です。

    私もそういう関係に悩まされてきたし恨みもしていたからこそこの作者の作品に共感していたのですが、その問題があらかた自分の意識の中で整理されるともう違和感でしか感じられません。

    海街では最初の方、
    すずが抑圧した可哀想な子、欲望に忠実な継母という形で、
    3人姉妹がすずの救世主となり、すずの生活だけでなく心まで救い上げるやり取りの中で、継母に対しての割り切れなさを表現していましたが
    (なぜ異母兄弟の彼らがあんなに急激に仲良くなれたのかはその辺が大きい気がします。ただ綺麗すぎて違和感は感じましたが)

    救いが日常になった2巻以降どうしてもダラけてしまうのはその辺がメインテーマだったからなのだろうなという感じで何となく続きを追っていました。

    それがいきなりの母登場(本人は出演なし)でこの罵倒とは、彼女たち(というか作者の)の恨み晴らしにしか見えませんでした。

    なぜここでこの話を出す?
    という違和感もあり、そしてすずと継母以外の関係性の中で1番強烈な印象を受けました。
    正直あとの恋愛とかその辺はとってつけたイベントにしか見えず、
    ある意味生き生きと書いていて怖ささえ感じました…

    キャラは好きですがこれ以上読み続けられるのか…
    正直私も彼女たちの母に対しての対応が酷すぎると感じるためなんだかなーって思いです。

    本当は寂しかったとか本音ならまだしも罵倒&自分たちの正当化に違和感しかないです

    • たいへん丁寧なご感想をいただきながら、承認が遅くなってしまい申しわけありませんでした。

      結局、作者自身のルサンチマンがキャラクターや物語のバランスを壊しかねないレベルで露わになってしまってるところに違和感を感じるのかもしれません。
      親を筆頭に大人のエゴや弱さの犠牲になった(元)子供たちの再生と成長がこの物語の大きなテーマなわけですが、正直なところ、すずはじめ姉妹たちの「可哀想な子」ぶりを強調したいあまりに、ことさらに母親のダメっぷりを強調するようなエピソードを唐突に重ねてくるところに、ストーリー上の必然性を超えた作者の作為そして悪意を感じてしまいますね。こちらはこちらで、どうもあの姉妹(と大叔母)はあの母親を体のよい共通の感情のサンドバッグに仕立てて(無自覚に)結束を保っているのでは…といった悪意を持って観てしまいます。本来の元凶である父親への態度のあまりの差も加えて。

      いっけん、それぞれ欠点や弱さを持つ人間として親や家族を許そう、受け入れようというようなメッセージやストーリーを語っていても、それを描いているはずの他ならぬ作者本人が自分の母親をいまだ一番許せていない、「母の犠牲になった子供」である自分を昇華できていないのだなあ、と私も思いました。

  2. こんにちは

    大変に興味深く読ませていただきました。

    でも、ちょっと、違うかなっと思ったことなのですが、母親に反感を感じているのは長女の幸だけで、次女の佳乃、三女の千佳は、それほどの反感を持っているわけではないのではないでしょうか。佳乃は、祖母の七回忌の法事の前にも、幸に修羅場はごめんだと釘を刺していますし、千佳はむしろ、母親に対して「幻想」さえ抱いている、と表現されています。うちに泊まればいいのに、とさえ言っている。

    確かに、娘の結婚/妊娠のお祝いに、真夏に荒巻鮭を贈ってくる母親という設定は、ある意味、荒唐無稽とも言えるかもしれない。私は、夏にも新巻鮭を手に入れることができるものなのか、っと、その点を不審に思ってしまいましたし、一匹の荒巻鮭を捌くことで、何切れの鮭の切り身ができるものなのか、大家族の友人宅何箇所にもお裾分けできるほどの量なのか、などとも考えたのも事実です。

    しかし、ここでも、よっちゃんは笑っているかもしれないけど、母親に対してそれほどの悪意を感じてもいるように見えないし、幸にしたって、自分の尺度とは違うと言って腹を立ててはいても、こういう母親の幼さ(?)を「恥」と言って強く否定しているわけではないように、私には思えました。

    だって、そんなに否定するなら、捨てることも、送り返すこともできる。そうではなく、お裾分けをする、それは受け入れることに他ならないと、私には思えました。

    このお話は、一番最初、佳乃が自分の家庭を語った時、父親は15年前に、そして母親はその2年後に子供達を後に残して自分の新しい家族を形成するべく去っていき、そののち一度も両親とは会っていない、というようなお話だったように思います。

    しかし、母親に関しては、13年間音信不通で一度も顔を合わせていないわけではなく、祖母のお葬式では、幸と母親・都は修羅場を繰り広げた、とされています。音信不通でも一度も会っていないのでもないのです。

    祖母の一周忌や三回忌のお知らせだって出している。なんだ、どこにいるかもわかっている相手なのか、それにしても、互いのつながりを非常に希薄にしている理由はなんなのだろう?と、疑問を感じるのは確かです。

    ある意味、祖母が、この3姉妹を囲い込んで母親・都と距離を保たせたのは、都の新しい家族の幸せを思ってのことかもしれない、などと、私は勝手に考えていました。

    最初の設定では、とりあえず両親に捨て去られた子供たちが成長して、半分だけ血の繋がった妹と暮らすことを選択し、そこから家族を形成していくという設定を考えたのが、話を展開していくうちに様々変わっていったのかな、と私は思っています。

    そんなふうなドラマチックな設定から、不幸そうな生い立ちの中でも「不幸に見えない」姉妹と設定を変化した理由も、わかりません。

    ただ、当初の予定とは、様々変化したお話の展開があったことは確かだなぁ、と思っています。

    • コメントありがとうございます。

      確かに、佳乃と千佳は母親に対しては幸ほど反発はしていませんね。佳乃はむしろ母親には割り切って醒めた目で見ているというか「どうでもいい」といった態度ですね(実はいちばん残酷ですよね…)。片や千佳の方は物語の当初からそんな姉たちに同調していて、良くも悪くもそれほど拘りは無いように見えましたが、妊娠発覚後の例の下りで実はいちばん母親に「幻想」を持って慕っていた…ということが幸から唐突に語られたところにも違和感がありました。

      むしろ、母親に対しては最初からきっぱり法事にも呼ばず敷居もまたがせない、贈り物も受け取らず突き返す、というように徹底して拒絶していたほうがよほど納得はできるんですよね。千佳の結婚に際しての顔出しにも期待されていないくらいで、しかし贈り物には不平を言うとか、私としては正直理屈があっていないというか、はっきり言って理不尽もいいところだろうと(それが母娘の割り切れない葛藤というものなのでしょうが)。しかし当の娘たちの方から母親に心身ともに距離を置いて「それなり」の扱いや態度しか取っていないのだから、(母親の真意はどうあれ)母親の方の対応が「それなり」になっても文句を言う筋合いはないでしょう。少なくとも私は姉妹たちにはどうにも(作者が意図するような)共感や理解ができませんでした。

      仰るとおり、この物語の当初のテーマの一つは、親を喪った姉妹たちが新たな家族を形成していくことで親たちへの葛藤も昇華していく、というものだったのでしょうが、その辺りは2巻あたりまでで描ききってしまっているはずなんですよね。それが、連載が当初の想定を超えて人気が出て長期化したため、テーマやストーリーにも次第にブレが出てきてしまったのではないでしょうか。

  3. なかなか難しげな解釈をされていますが、この物語にはともに支え合う人間の姿が描かれています。あくまでも漫画ですから多少は突っ込みどころもあるとは思いますが、この姉妹の関係を軸にあまり劇的な展開も無く、登場人物それぞれの背負った「想い」がそんなに絡み合う程度でもなく描かれていて、ある意味その辺の井戸端会議を見聞きしいている様な感じで過ぎて行きます。
    それでいいのです。
    超人の登場も時空を超えた展開もありません。ここではただ日々生きて行くために、家族を必要とし必要とされた、何処にでもいそうな完璧ではない人間たちが少しずつ何かに気付いて成長して行くという非常に「ツマラナイ」世界が描かれているのです。
    この日常の「ツマラナさ」というものがどれだけ見えない愛情に支えられているかということを無意識に気が付かせてくれるからこそ、この漫画は10年以上も続いたのだと私には思われます。
    「ありきたり」の想像世界を描いた分類不可能なSFものやどぎつい殺人をすることに何のためらいもない不感症的な作品が跳梁跋扈する現代において、これだけ「ツマラナイ日常」というものを瑞々しく、また輝かしく描いた作品はないでしょう。
    こういう作品を長年に渡って連載した出版社の懐の深さに乾杯してもいいでしょう。

    • >超人の登場も時空を超えた展開もありません。ここではただ日々生きて行くために、家族を必要とし必要とされた、何処にでもいそうな完璧ではない人間たちが少しずつ何かに気付いて成長して行くという非常に「ツマラナイ」世界が描かれているのです。

      これについてはまったく仰るとおりです。私としてもやはり基本はそのような印象のもとにこの物語に親しんでいたし、また楽しみたかったのですが、だからこそ、この記事などに述べたような(作者の価値観やスタンスに対する)違和感がどうしても気になってしまうのです。

      現実世界のごく「普通」の「ありきたりな」人々どうしが作り上げ住む世界の中で繰り広げられる、姉妹たちとそのゆかりの人々たちの成長や愛情が多くの読者を魅了したのは間違いありませんが、私などはまさにそうした一見「ありきたり」な人々が信じてやまない「ツマラナイ日常」や世界や愛情から(作者により)スポイルされた存在、またはそのような(作者からの)扱いの方がどうしてもトラウマ的に気になってしまいます。たとえば最近の話題作である『ど根性ガエルの娘』などはそうした「ツマラナイ日常」に拘泥する「ありきたりな」人々の歪みと、その「ツマラナイ」日常を守るためのスケープゴートにされた側の異議申し立てを描いています。

      それこそ、『BANANA FISH』などのハードボイルドやSFテイストの吉田秋生の過去作品ではまさに「ありきたり」になれない、ツマラナイけど平和な日常や愛情から疎外されたり排除された人々の心情や苦悩にもスポットをきっちり当てて描いていたはずなのですが。

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