1月 232015
 
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2015/03/11 ちょっと加筆&追記しました。

およそ私がこの世界で最も憎悪しているのは「(「正義」を嵩に掛かって)弱いものいじめをする人間」であり、そして最も恐怖を感じるのは「(自分の)正しさを疑わない人間」である。

『海街diary』の大好きなところとちょっとどうかと思うところ – 斗比主閲子の姑日記 『海街diary』の大好きなところとちょっとどうかと思うところ - 斗比主閲子の姑日記 このエントリーをはてなブックマークに追加

http://topisyu.hatenablog.com/entry/umimachi_diary

先日、こちらの記事から興味を持って、吉田秋生『海街diary』を通読してみた。鎌倉の古家に住む三姉妹が、両親の離婚で音信不通になっていた父親の死を切っ掛けに、その浮気相手との間に出来た異母妹を引き取って同居する所から始まり、姉妹や周囲の人々それぞれの恋愛や家庭などに纏わるエピソードが展開していく。鎌倉という街の四季の情景や空気感が吉田秋生ならではの高い画力で再現されているところ、丁寧な人間模様の描写など楽しめるところも多い反面、やはり少なからず違和感や反感を感じたのはどうにも否定できない。

まず、上掲の記事にもあるとおり、「主要人物がやたら他人の気持ちを読め過ぎ&詮索しすぎ、そしてその主要人物の状況&心情把握能力の水準を自明の理のように有象無象の他人にまでも暗に要求されている世界観」というのが一つ。逐一例を挙げていたらキリが無いのだが、とりわけ、末の四女・すずとそのサッカー仲間たちの感受性や洞察力、分析力諸々は現実の中学生男女はおろか大半の一般成人のレベルすら凌駕しているのでは、と思えてどうにもリアリティを感じられないのだ。複雑な生い立ちのすずや片親家庭の裕也ならまだしも「まあ、ああいう育ちや経験をしていればそういう風に内面が成熟できるだろうな、というかそう老成せざるを得ないんだろうな……」とか解釈することも可能なのだが、ごく普通の家庭出身のはずの風太や美帆までもがそのようなスペックに設定されているところはちょっと出来すぎなんじゃないかと(この二人は兄姉が多いせいでその辺りの能力が鍛えられたのかもしれないが)。作中では「オバカなKYキャラ」という設定のマサこと将志ですら、それでもリアルの標準的中学男子よりは遥かにデリカシーに恵まれていると思う。現実の中学男子なんてはっきり言って殆どは「辛うじて言葉が話せる発情期のサル」程度の扱いや認識が相応しいくらいの代物だろうし、リアル中学女子に至っては殆どが自分が全宇宙、の中心ぐらいに素で確信しているのがむしろ当然の振る舞いだと思うのだが。

もちろん、端役はそういう期待がないというか、物語の外の人間として、あまり空気を読めない、察せない役柄として登場するんですが、主要キャラクターには高いレベルで察することができないと周りからプレッシャーがかかるんですね

自分は空気を読むとか、察するとかは大好物ではあるものの、さすがにそれを中学生にまで求められる世界というのはなかなか生き辛いなと、大好きな点ではあるものの、ちょっとどうかなと思うわけです。

(※太字筆者)

このような設定を踏まえた上で、加えて私がどうにも釈然としないのは、それらの主要キャラクターが周囲からは特別扱いされていたり、異様に見られていたり畏怖されて遠ざけられているということもなく、それどころか彼らの振る舞いや考え行動の方があるべき当然の姿、というように扱われ異議を差し挟む余地すら感じさせない、そして彼らに非難されたり嫌悪されたりするキャラは総じて残念な駄目人間、もしくは性悪な俗物としてスポイルされて、そしてまたそれが当然どころかまったくもって自然な現象であるというような、この作品世界に漂っている「空気」なのだ。これまた引っかかる場面はいくつも有るのだが、一例を挙げれば、第2巻で悪性腫瘍のために片足を切断した裕也(多田)の元にファンの女子達が見舞いに来て、その女子たちの「安易な同情&無神経な励まし」に苛立ったすずが彼女たちに向かってサッカーボールを蹴り込んで追い払う、という場面だ。

海街diary 2巻 1海街diary 2巻 2海街diary 2巻 3

正直なところ私としては、この女子たちの「ノーテンキ」ぶりこそがむしろ現実のごく普通の、ある意味健全な中学生女子の反応であり態度であって、それほど主役サイドから激怒され非難されねばならぬほどの存在とはどうしても思えないのだ。そもそも、彼女たちは風太やすずたちとは違い、同じチームの仲間として裕也と常に行動や苦楽を共にしているわけではない。たまに練習や試合を観に来て彼を遠巻きに応援するだけの一介のファンに過ぎない。その程度の接点や立場で裕也の詳しい事情、まして彼自身の本当の心情などは推し量る術も無い。その上で、彼女たちのようなお嬢様学校に通うような恵まれた特に苦労も無い、おそらく身内にも障碍者や重い持病の持ち主も居ないようなローティーン女子の発想と感性と語彙のレベルでもって、それでも彼のような相手に自分の思い、励ましを伝えようとすれば、以上のような言動が精一杯ではないだろうか?(実際、「かわいそう」なのも、「がんばって」ほしい、というのも確かに事実ではあるのだし……)

むしろ、この程度の「悪気のない(むしろ純粋な善意)」やらかし(というほどの所行でもないと思うが)に対して、いきなりスレスレの距離であの堅いサッカーボールを叩き込むという明らかに行きすぎた行為(私などはしょっちゅう直にヒットさせられていたものだが、あれは本当に怖い&痛い(>_<)!)を、当の下手人のすずが何の躊躇いも罪悪感も無いどころか、仲間たちも揃って容認どころか積極的に肯定している、という「空気」の方に傲慢さ、偏狭さ、そして恐ろしさすら感じてしまう。十代ならではの正義感の暴走、と言えばそれまでなのだろうが、それでもせめて一人くらいは「気持ちは分かるけど、あれはちょっとやり過ぎじゃね?」とか突っ込んでみせるキャラを配置しても良かったのでは? 彼らの行為、そして作品内の価値観に相対性や客観性を持ち込むためにもぜひ必要だった、とすら思える。未熟さや幼さゆえの能力不足、配慮不足による失敗というのは改善の余地があるし、嫌ならスルーして適当にあしらっておけば済むのだが、かのような「正義(感)」ゆえの行為というのは傍からは抑制や軟化がし辛いうえに、以上の例を見れば分かるとおり、しばしばエスカレートして暴走しがちだからだ。

実際正直なところ、もしこういう人たちが現実に何人も存在してしかも周囲、まして身内にまでいたりしたら、さらによりによって実の親兄弟だったりしようものなら、私にとっては悪夢以外の何物でもない。少しでも下手なことを口走ったりうっかりミスをしたらたちまち 突っ込まれ放題いじられ放題、呆れられ放題叩かれ放題だろうし、それで開き直って将志や千佳のような天然マイペースキャラを貫くほどの図太さも無い。本来 憩いの場であるはずの我が家でおいてすら、一時も気を抜くこともできない(しょうゆくらいは好きに掛けさせてくれ!)。24時間年中無休で監視されているようなものである。まるで刑務所や軍隊……いや、刑務所や軍隊ならば規律も規則も明解でそれに従えさえすればよいのだが、こちらの場合は一挙手一投足のルールは専ら彼らの胸先三寸に掛かっており、それらは専ら自力のみで読み取って判断せねばならず、それが理解できなかったり少しでも外れた振る舞いをすれば甘え、無思慮、無能と見なされるのだ。私などは姉妹たちの母親が実家を嫌い故郷に寄りつかなかった気持ちが良く分かるし、むしろこの母親の方に同情したくなる。

(ちなみに、姉妹たちの祖母など、作中では姉妹たちからも周囲からもかなり尊敬されて美化されたような描き方だが、この母親や姉妹たちのパーソナリティや関係から見る限り、母親としてはかなり娘たちへの態度が抑圧的だったというか、私からは正直「毒親」だったと判断せざるを得ない。まあ親が教師などをやっていたような家庭にありがちな状況ではあると思う)

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姉妹の母親(2コマ目左端)の表情に注目。教育者やリーダーとして世間では人望厚い人が必ずしも良き家庭人、特に子供にとって善き親とは言い難いのは往々にしてある。

そして、この手の人たちに限って、些末な言動やマナーにはやたらうるさくシビアなくせに、時に一番肝心の所で信じられないような無神経且つ残酷な振る舞いをしでかしたりするものだ。先掲のすずのボール蹴り込みもそうだし、姉妹の長女・幸も再婚した母親には厳しいくせに自分は父親と同じく逃避的な不倫をしていたし。不倫などまさにKYな愚行の極致ではないのか。しかし、これがまた主人公たちの行為となると、不倫と云えども半ば「止むを得なかった行為」としてごく自然に美化されてしまうのである! 幸の不倫相手にしろ、彼女たちの父親のケースにしろ、それぞれの妻たちを殊更に幼稚で頼りない、夫に見放されても仕方の無い、仮に愛想を尽かされ不倫されても同情には値しないような女性として強調して描くことで、本来彼女たちを裏切った側であるはずの彼らの罪が相対的に薄められているのだ。特に姉妹の父親など、まさにこの男こそがどう考えても諸悪の根源、作中最悪最低の意志薄弱無能KY駄目人間と言っていいはずの人物に対しては、何故か姉妹たちも他のキャラ達も妙に甘くスルーしているのである。私的にはここが一番納得のいかないところである(これとそっくり同じ所業をもし「母親」の方がしでかしていたら、この作中でも現実世界でも一切の弁解も擁護も同情の余地も無く、徹底的に糾弾され抹殺されまくることは疑いようがない!)。

(加えて、またこの父親の所業を緩和して見せるためか、すずの継母にあたる女性、父親の二度目の再婚相手もどうも元から悪意ありきで設定されているきらいがある。確かに彼女の役柄上からもネガティブな造形にしておかないと初対面の腹違いの姉たちがすずを引き取る決意をする動機付けができない、ということもあるだろうが、ならば最初から登場させなくてもストーリーは成立するし、そもそも彼女の存在自体が必然が薄いのだ)

umimachidiary5 umimachidiary6 umimachidiary7

(もちろん怒るのは当然なのだが、二人とも、その怒りをもう少しは「そういう女性」を選んだ父親の方にも向けてもいいんじゃないか、とどうしても思ってしまうわけで……)

しかし、現実世界においてもこの類の「正義」の暴走、己の「正しさ」を一片も疑うことのない人々の独善的暴力というのは、それこそ中学校でのいじめからDV、パワハラモラハラ、そして究極にはホロコーストに至るまで、言うまでもなく古今東西に溢れている。こうした人たちとは私は理解もコミュニケーションもおよそ不可能だろうし、それこそエイリアン並みの隔絶と根源的恐怖を抱いてしまうのだ。そして、この『海街diary』の一見穏やかで「優しさ」に満ちた世界にこそ、まさにこの手のエイリアンが跋扈するディストピア、弱さや愚かさ未熟さが一切許されない世界の萌芽をかぎ取ってしまうのである。

追記(2015/03/11):

以上、随分と長々と愚痴めいたことばかり連ねていて、正直不快や反発が多いだろうな……と思いながら掲載したのだが、大変好意的な反応も頂けて、正直ホッとして、少なからず力づけられましたm(__)m。

本来、私は吉田秋生作品はかなり好きで、とりわけ『BANANA FISH』『YASHA』などはお気に入りだったし、この『海街diary』でも作品自体の質や技量の高さそのものを否定する意図は毛頭無い。ただ、吉田作品の場合、非日常的な舞台やストーリーでは目立たず設定上からも納得できるような作者の価値観や視点が、なまじ日常的でリアリティの高い世界を題材にすると、以上でも述べたようなちょっと独善的なところや説教臭さ、上から目線な押しの強さといった面の方が目立って感じられてしまうな、と。そして、こういった印象は他の大御所女性作家に対しても抱いたりする。もっとも、そういう良くも悪くも自我や信念の強い人たちだからこそ、作家として大成できたのでしょうが……。

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  19 Responses to “【感想・批評】「正義エイリアン」への恐怖 —吉田秋生『海街diary』への違和感—”

  1. 自分も男子中学生を全員「辛うじて言葉が話せる発情期のサル」の扱いをすべきという自分の正義を疑わない主張に恐怖してます。
    あなたが送ってきた中学生活の周りに上記を連想させる種類の人間が存在したかは存知あげませんが、それを常識だと認識して論を捲くし立てるのは一種の偏見では?
    私の中学生時代の女子は陰口が大好きで何かあると、女子同士連合して一人を潰し抜く、他人の席を陣取りくだらない話に手を叩いて人目を憚らず大笑いする女子と三年間の時間を過ごしてきました、私も女性という性別が全員そういうモノであると喧伝して扱うのが正しいのでしょうか?女は全てテレビ番組とアイドルとブランドモノにしか興味を示さず、無駄に厚い化粧をして外だけ取り造り、中身が希薄な恋愛小説で感動を消費する生物として描けばよいのでしょうか?ご教授願います

    • >>自分も男子中学生を全員「辛うじて言葉が話せる発情期のサル」の扱いをすべきという自分の正義を疑わない主張に恐怖してます。

      確かにこの辺りは言葉が過ぎました。不快なお気持ちにさせてしまって申し訳ありませんでした。
      ただし、この辺りの表現はあるべき正義や主張などといった大それたものではなく、あくまで私個人の主観、偏見の一端として読み流していただければと思います。
      もちろん、現実の中学生の大半は男子女子問わず、程度の差はあれ年相応に悩んで真面目に物事や他者に向かい合っているのでしょうし、この『海街diary』に登場するような早熟で聡明な中学生たちも現実には確かに存在しているのでしょうが、それでも、『海街diary』のキャラクターたちが特別に優れた例外ではなくあるべき基準のように提示されているように感じてしまい、その辺りに違和感や反発を抱いてしまった、というところです。

  2. はじめまして 映画からこの作品を知り、原作コミックをハマったおっさんですw

    さて、一方的な価値観の押しつけに拒否反応を示すこと自体にはまったく同感なのですが、よりによってこの作品にそういう感想を持つとは・・・と正直なところ仰天しています。
    この話はいろんな価値観を持つ人の中で許し合って受け入れ合っていく物語、と思うのですが・・・?

    すずのサッカーボール至近弾のエピソードを例に挙げると、すずや裕也のような「他人から無責任な同情を受ける」ような傷やハンデを持つ人にとって、無責任な同情を受けることによって余計傷つく、というのは価値観というようなものではなく「普遍的な真実」です。これはそういう傷を持った人にしか判りませんが。

    すずはそれを知っているから、裕也を傷つけているファンの子に対して怒りをぶつけたのですが、裕也からはそのこと自体も「無責任な同情」だと指摘される、というシーンです。
    これは後ですず自身も自省しています。

    このテーマは、すずの進学問題に「無責任に」首を突っ込んできたマサが袋叩きに遭ったりするエピソードを始め、作中で繰り返し語られるテーマです。

    みんながそういう「傷」を持っているわけではないので、風太や美帆のような比較的敏感な子は、裕也やすずのそういった気持ちを受け止めることによって、「人の気持ち」が判る大人になっていき、鈍感なマサは反発をうけたりはっきり怒られることによって学んでいくわけです。
    あのファンの子たちだって、裕也のチームメイトからあからさまな怒りを向けられることによって、「学ぶ」機会を得たわけです。この1回だけじゃ判らないかもしれませんけどね。

    「黙ってスルーする」なんてのは大人になって覚えるズルい手法で すずの年代では剥き出しのままぶつけ合わないと、人の気持ちが判らない大人になってしまいますよね。
    大人になって人の気持ちが判らない言動を繰り返すと、みんなに黙ってスルーされ、知らない間に誰からも相手にされなくなってしまいます。例えばマサがこのまま大人になったら。
    でも、そのマサも怒られながらも仲間として受け入れられているし、読者から見ても愛すべきキャラとして描かれているでしょ?

    まあ、「子供は生の感情をぶつけ合うべし」ってのは、1つの「価値観」で、作者も私と同じ価値観でこの物語を描いているのは明らかですがww

    あと、不倫についてですが、そもそも「不倫は絶対悪」なんて”価値観”自体が、せいぜいこの10年ほどの間世間に根付いてきたものです。
    まずは、父親を最低最悪のダメ人間で諸悪の根元、と断罪すること自体が、自分の価値観に合わないものを全力で排除しようとすることに他ならないことを指摘しておきますww

    それはともかく、三姉妹にとって父親の行為を否定することは、すずの存在を否定することに他ならないことに気づかれませんでしたか?
    すずも、父親と陽子のことには、「男女のことは身内でも立ち入れない」と達観したことを言う割には、自分の母親のことは「奥さんがいる人を好きになるなんてダメな母親」と否定的なことを言ってました。ここは母親を否定することで自分の存在を否定している場面です。
    映画では「自分がいるだけで傷ついている人がいる」と、もう少し判りやすいセリフを言わせてますが。

    そのすずの自己否定のつもりの言葉も、幸を傷つけていたかもしれない、とすずは後悔するし、母親を責めていた幸も、それがすずを傷つけていたことを知ったわけでしょ。
    幸たち三姉妹もすずも、父親やすずの母親を許さないと、すずの存在を否定することになってしまうんです。
    自分の価値観を正義ぶって振りかざすとすずも傷つけてしまう、というのは、この物語の前半のテーマでもあったのに・・・

    ぶっちゃけ、アマノイワトさんが上の記事で、不倫が悪、という価値観を「正義」であるかのように書いた文章を読んで傷つく人もいる、ということですww
    世の中にすずのような立場の人は大勢いますからねww

    マサのような「学べないまま大人になった」のが、作中では都や陽子として出てきます。
    陽子はまさに三姉妹にも作者にも「黙ってスルー」というオトナの対応をされてますが(すずは当事者なのでそうもいかんけど)、都は特に幸はまともにぶつかりますよね。
    でもその幸も、最終的には「噛み合わない」と知りつつも、幸なりに許して受け入れてますよね。

    そういう話、なんですけどねぇw

    • flying-frogさん
      大変丁寧なご意見ありがとうございます。

      まず、件のすずのボール至近弾エピソードの件について、私はすずの憤りそのものはもっともだとは思いますが、やはりあの方法ではあのファンの子たちにはすずたちの怒りやその理由は伝わっていないだろうし、「生の感情をぶつけ合う」ことで相手の気持ちを学びあう、というどころか彼女たちに対しては結果として「一方的な暴力」そして排除にしかなっていないと思います。すずたちがその行為の理由、そこまでの怒りを覚えた理由を彼女たちに自分たちの口できちんと説明していないし、そもそも説明そのものを元からする気がないからです。つまり、すずたちの方でも彼女たちの立場や気持ちへの理解や配慮、そして彼女たちに対して自分たちの気持ちを分かってもらう努力をあらかじめ放棄しているように見えます。もしflying-frogさんが仰ったような意図を表現するのであれば、当記事にも書いたとおり、やはり作中でもう少し何らかのフォローを入れるべきだったと思います。

      そして、私としては姉妹たちの父親の行為を否定というかきっちり批判することは、すずの存在を否定することには繫がらないと思います。生まれた事情にいっさい関係なく子供たちの存在や権利が保障され保護されるのは当然のことだからです。むしろそのような発想こそが、すずと同様の立場の子供たちを貶めることになるのでは。そして、むしろ以上のような理屈ですずのような子供たちを盾にして、不倫をしでかした自分たちの罪や責任を曖昧にしたがる大人たちを利しかねません。もっともこれらについてはこの作品の本題というわけではないので、あまり躍起になって拘っても意味は無いといえばそれまでなのですが。

  3. さっそくのレス、ありがとうございます。

    まずすずの至近弾の話ですが、もし私がすずでも裕也でも、説明なんてしませんよ(笑)
    そもそもすずはもうキレているので、説明することは不可能ですし、ファンの子にしてもすずから、あるいはすずの仲間から説明されても素直には聞けません。
    もしかしたら、別の友達か彼女たちの親が、彼女たちから話を聞いて「もしかしたら君たちのこの言動が彼女を怒らせたのかもね」という説明をしてくれるかもしれません。もちろ 誰からも説明されないかもしれませんが。

    人を傷つけたことは、血を見ないと分かりません。この場合の「血」というのは、つまり怒りなどの激しい感情です。
    そしてナイフ持って刺したら血が出た、みたいな単純な話とは違って感情の問題は分かりにくい。基本的に実体験に裏打ちされていないと理解できないので、単に言葉で説明されても理解できないです。

    すずが高校の推薦の話で悩んでいたとき、マサが無神経に介入してすずがキレたシーンがありましたよね。
    それとこれは根っこは同じ問題だということは判ります?

    ここでマサはすず本人でなく、美帆から「説明」されますよね。
    美帆がマサに説教したのは、マサが仲間だからで、マサが美帆の説教を素直に聞けたのも、マサにとって美帆やすずが仲間だからです。
    それでもマサは作中でも言われているように、本当には理解できてません。今後も同じ失敗をするでしょう。
    この場でマサが理解できたのは、「自分は謝罪に値することをした」ということだけです。
    そういう経験を積み重ねることで、いつか自分も血を流すような傷を負ったときに初めてこの時のすずの気持ちが判るのでしょうし、そうでなくても「知らない間に人を傷つけることがある」ということを知るだけでも十分です。そのことはファンの子にも知る機会はあった、わけだし。

    むろん、すずの行動が正しいわけではないです。すすがああいう形で感情を爆発させたのは、もちろんすずがまだ中学生に過ぎず未熟だからです。
    すずも大人になれば「黙ってスルー」するスキルを身につけるでしょう。その一つの完成形が幸ですねww

    でも至近弾の件では、すずも裕也を傷つけていたわけで、そこにすずが思い至る描写が「作者的なフォロー」ではないですか?
    すずがもっと成熟すれば、ファンの子にも思いが至る(あれじゃ伝わらないな、と)でしょうけど、まだ中学生のすずにそこまで期待するのはどうなんでしょう(笑)
    アマノイワトさんが言われたとおり、仲間のことを思いやれるだけで上出来でしょう。

    少なくとも、この場のすずにとって最優先事項は、「裕也を守ること」であって、ファンの子に理解してもらうことではなかったわけですから。

    • >ファンの子にしてもすずから、あるいはすずの仲間から説明されても素直には聞けません。

      これはあくまで憶測でしょう。

      確かに他人の心の痛みは自分でも同じような体験を積まないと理解できない、というところはありますが、だからといって最初から相手に対して「どうせ話したところで理解できるはずがない」とか決めつけて、説明や話し合いを諦めて放棄してよい、まして相手に敵意や反感だけ投げつけてお終いでいい、ということにはならないでしょう。
      (こうした発想や態度はむしろ私なども含めて女性に多くありがちなので、自戒したいところですが)
      まさに『海街diary』でも度々描かれているように、親しい仲間や家族、恋人どうしの間で真摯に向き合って話し合ってもなかなか相手の思いを理解しきれなかったりすれ違ってしまうことはありふれているわけで、まして自分とは異質な他人ならばなおさらです。むしろ「仲間」ではないからこそ冷静な言葉による説明が必要になってくるわけです。
      「あいつらは『仲間』じゃないんだから言葉では分からないだろうし、そんな説明をする義務もないしそんな気にもなれない」から暴力的な態度で示すしかない、応じて構わない、という発想はいじめやテロ、戦争に繫がりかねないと思います。
      たしかにこうした姿勢に出るのは中学生では難しいかもしれませんが、件のすずの彼女たちに対する態度は決して適切なやり方ではなかった、いくら裕也を守るためとはいえあまりに乱暴すぎた、ということを作中でも示しておくべきだったと、やはり思います。

  4. 長くなって申し訳ありません。
    と言いつつ2回に分けるという(笑)

    不倫問題ですが、これは作品の本題そのものですよ。これだけがテーマというわけではなく、他にも様々なテーマを持っている話ですが、これが物語の根幹に関わる大きなテーマの1つであることに違いはありません。
    だからこの物語 この問題は、一周忌、金沢の母方の親戚と、形を変えて何度も繰り返し扱われているんです。

    これは感情の問題なので、行為そのものと結果を分けることは、そんなにすっきりとはいきません。

    法律上も、例えば嫡出子と非嫡出子で遺産配分に差があったりするので「生まれた事情に関係なく」というわけでは決してないですが。

    子供の立場で想像してくださいよ。
    目の前で自分の親の不実を口を極めて罵られて、その後で「でもそれはあなたには何の関係もない話だからね」と言われて、それを信じて自分の存在を自分で肯定できると思いますか?

    行為だけを批判するのは、感情が揺さぶられずに冷静にならないとできないし、簡単に全存在を否定するとこに繋がってしまいます。
    アマノイワトさんが記事中で父親を評したのも、
    「諸悪の根源、作中最悪最低の意志薄弱無能KY駄目人間」
    という言葉を使っていて、これ、全否定ですよね?
    第三者である読者ですら簡単に全否定してしまうのに、当事者、それも親子の関係で行為だけを批判、という冷静なことができるわけがないんです。
    良いこと悪いことすべてひっくるめて、許すか許さないか、です。

    で、作中で幸たちは、だめな人と言いつつも優しい人だった、と許しているわけで、当事者 許している以上、他人の我々読者が口を挟む問題ではない、ってことですww

    すずにとっては自分の父親や母親を許さない、というのは自分の存在を許さない、というのと同意です。
    そのあたりは映画の方がセリフで説明してくれているので判りやすいですが、原作でもすずが自分を肯定できるかどうか、が長い巻数で描かれているのは同じです。

    そのすずも、一周忌で弟に会ったとき、自分が陽子を許せなかったことが弟たちを許せなかったことに直結していて、その感情を弟に気づかれていた、ということを知ります。
    つまり自分が恐れていることを弟にしていた、ということに気づくわけです。

    この「自分が傷ついたことが、知らない間に人を傷つけていた」というモチーフは、すずに関しては何度も語られるテーマです。
    至近弾の件もそうですし、すずの「奥さんがいる人を好きになるなんて、お母さんはダメだよね」が、そのまま幸を傷つけていた、というエピソードもそうです(言われた幸の方はそれほど気にしていた様子はないにしろ)。
    「一方的な価値観の押しつけ」とは対極にある物語だと思いませんか?

    話を戻せば、そのあたりを幸たちが比較的あっさりクリアしているのは、父親が幸たちを捨ててから長い時間が経っていて、しかもその結果、自分たちが不幸になっていないからです。

    都は陽子と同じで自分自身が庇護されることを必要とする、「大人になれていない人」なので、あっさり自分たちを捨てて他の庇護者のもとに走ったわけですが、幸たちは代わりに祖母による庇護を受けることができ、祖母の死後は幸が庇護者の役割を果たしてきたわけで、今現在は3人とも他人の庇護を必要としない自立した大人になれているから。
    だから、まだ子供であるべき時期から庇護者の役割を押し付けられて「子供であることを許されなくなった」幸だけが、父母に対してまだわだかまりを持っているのでしょう。それも父親に対してより母親に対する感情が強いのは、その年齢によるものかと。

    • >当事者が許している以上、他人の我々読者が口を挟む問題ではない、ってことですww

      それを仰ったら、そもそも読者が作品やキャラに感想をのべる行為じたいがみな無意味で余計なお世話、ということになってしまいます(^_^;)。

      >すずにとっては自分の父親や母親を許さない、というのは自分の存在を許さない、というのと同意です。

      むしろ、すずに対してはこういう発想の理屈そのものを否定してあげることが必要で、それが出来るのはそれこそ第三者しかいないと考えます。もちろんある程度相手を許さなければ自分が先に進めないということはあるし、まして無理に両親を憎む必要はないのですが、それはそれとして、彼女に対してもその周囲に対しても彼女らの両親、特に父親の弱さや落ち度はきっちり「罪は罪」として総括して示しておくことは必要だと思います(そのことでたとえ他の誰かに負い目を負わせることになってしまっても)。そうしないと、それこそすずの姉たち、とくに幸のように将来の交際において両親と同じような過ちを繰り返してしまう恐れがあります(さいわい、今の時点の描写ではその心配はあまりなさそうですが)。

  5. >それを仰ったら、そもそも読者が作品やキャラに感想をのべる行為じたいがみな無意味で余計なお世話、ということになってしまいます(^_^;)。

    基本的にはそのとおりですよね。父親を許した三姉妹に共感できなければ、その人にとってはこの話自体に共感できない、とうことですからww
    ただ、それはまさに「一方的な価値観を作品に押し付けている」ことになりませんか?
    この姉妹がどういう心の動きで父親を許すに至ったか、ということは作品中で十分に描かれていると思うのですが、それを汲み取って共感することができなければ、確かにこの物語で描かれる大半のことに共感ができないだろうな、と思います。

    >むしろ、すずに対してはこういう発想の理屈そのものを否定してあげることが必要で、それが出来るのはそれこそ第三者しかいないと考えます。

    三姉妹はすずにとっても第三者ではなく、当事者です。
    それに父母の行為が全否定されるというのは、自分の出自が全否定されるということですから、その中で自己肯定ができるわけがないですよね。
    自己肯定、自己否定というのは理屈ではなく非常に根が深い感情ですから。理屈で自己肯定ができるのなら、鬱病になる人などいません。

    それに別に父親は無条件に許されているわけではないです。
    三姉妹には「やさしい人だったけどダメな人だった」あるいは「ダメな人だったけどやさしい人だった」と、”ダメな人”というのが必ずついてまわる批評をしていますし、すずにさえ釣りに行って女の人をつってくるような人、という揶揄をされています。
    許す、というのは「良いことも悪いことも含めて許す」のであって、悪いことをチャラにしろ、ということではないです。

    三姉妹がそのあたりを許せなければ、すずを引き取るつもりには決してならなかったでしょうし、三姉妹は許せても母親の都は許せなかったでしょうから、もし都が家を捨てずにまだ鎌倉で暮らしていたのなら、すずが引き取られるということはなかったでしょう。

    >そうしないと、それこそすずの姉たち、とくに幸のように将来の交際において両親と同じような過ちを繰り返してしまう恐れがあります

    このことですずがどれだけの傷を負っているか、すずを身内として見ているこの三姉妹は、そういう選択はしないと思いますが。
    幸が不倫に終止符を打った理由のひとつには、すずが自分の出自にどれだけ負い目を感じているか、ということを見たから、というのもあるのでは?

    出自と存在には何の関係もない、という「きれいごと」は誰にでも言えます。特に関係ない第三者は簡単に言えます。

    そもそも三姉妹とも、結果的にですが浮気して家を出て行った父親と再婚して自分たちを捨てた母親の行為によって、特に不幸になったと感じていないのに、それでも激烈に「父親の行為は許せない」という感情を持てるわけがないんですよ。
    それは許されない行為、と断罪するのは倫理観つまり理屈であって、実際に許すのか許さないのか、というのは感情です。
    陽子を許していないのに陽子の息子である和樹に「母親の行為とあなたは何の関係もない」と言おうとした自分は偽善者だ、とすずが悟るシーンがありますが、そういうことじゃないですか?

    人間、原因と結果を分けて受容することはそう簡単にはできないんですよ。だから倫理観だけでものを言うと、自分の感情に反することを言ってしまうわけです。
    そこに自分の感情が絡まない第三者だけがそういう「きれいごと」を言えるのですが、それは当事者には何の説得力もありません。

    すずと和樹の関係は、幸たちとすずの関係と同じです。

    人の生き死には綺麗ごとでは済まない、ということを幸も佳乃も繰り返し口にします。

    このあたりはこの物語のメインテーマなので、このあたりに共感できなければこの物語全体に共感できないのだろうな、と思います。

    • >このあたりはこの物語のメインテーマなので、このあたりに共感できなければこの物語全体に共感できないのだろうな、と思います。

      確かに仰るとおりですね……。

      ただし、それでも言わせていただければ、たとえばflying-frogさんが仰るようにすずと仲間たちが、裕也のファンやマサの態度を「無神経、無責任な介入」「謝罪に値する行為」と断じてそろって非難する行為もまた一方的な価値観、感情の押し付けとは言えないでしょうか?
      たしかに未熟で配慮に欠けていたとはいえ彼らなりの「善意」や「優しさ」を、すずたちの方では言ってしまえば自分たちの個人的な事情と感情から一方的に「キレ」て拒絶して終わり、あるいは自分たちの「価値観」から相手の非や至らなさを非難する一方で、彼らが自分の考えを伝えたり弁護したりする余地すら与えていませんよね。

      なお、三姉妹はたしかに父親の方は「ダメな人」であると同時に「優しい人」であるとも認めているわけですが、一方で母親に対しては「ダメ」な部分ばかりを取り上げて揶揄するばかりで「優しさ」の方にはあまり目を向けようとしていない、ように私には見えてしまいます。結果として自分たちを祖母に押し付ける形になった母親の弱さや無責任、自分たちへの苦労への無理解さを責めるのは当然ではありますが、しかし、一方でその母親がそうなってしまった過程、厳格な母親(祖母)の元で抑圧されて過ごした辛さや三人の幼い娘を抱えた状況で夫を若い女に奪われた苦しみや絶望とかに対しては思い至らない。

      結局、たとえば幸が母親をそれなりに理解することはできても完全に受け入れることはできなかったように、どれだけぶつかり合ったり言葉を尽くしても生まれ持った感性や育った立場の違いというものは完全には乗り越えることはできない、お互い許容できる距離を保って過ごしていくしかない、いうのが現実でしょうね。
      作中では姉妹たちは最後まで都と同居することはないだろうし、陽子には二度と会うことはないのでしょうし、それが双方にとって唯一最善の選択だと思います。

      私としてはこの記事では、この『海街diary』が一般に高く評価され人気も高く、総じてその世界やヒロインたちを賛美し共感する読者が大半を占めるなかで、それでもどうしてもこういう感想や見解を持ってしまう人間も少数ながら存在するということを伝えておきたかったということです。
      その結果、こうしてflying-frogさんのような違う立場や視点からの意見もうががう機会を得られたということで、それだけでもこうして自分の考えを正直に表明したことは無駄ではなかったのだ、と思いました。

  6. >たとえばflying-frogさんが仰るようにすずと仲間たちが、裕也のファンやマサの態度を「無神経、無責任な介入」「謝罪に値する行為」と断じてそろって非難する行為もまた一方的な価値観、感情の押し付けとは言えないでしょうか?

    無責任な同情は却って人を傷つける、というのは一方的な価値観や感情とは少し違う気がするのですが。悪意がなければ許されるべき、というのも少し違うでしょう。傷つけられた方は「相手に悪意はなかった」ということでは何ら救われませんから。

    何より、そういう言動が人を傷つけるということ、傷つけられた時に感情に任せて激しく拒絶するのは傷つけ合いの輪を作る結果になってしまうこと、自分がされたら傷つくことを知らないうちに人に対してしてしまうことがあること、等々ということは、子供たちが子供同士の中で生の感情をぶつけ合いながら肌で学んでいくことで、そこに大人が介入することは可能な限り避けるべきだ、という「価値観」は、作者は提示していると思いますよ。それは私も全面的に同感するので、この作品が好きなのですが。

    本作品ですずがすること、感じることにはほとんど、それに対応する「逆からの目線」のシーンが存在します。
    例の至近弾だと、これはすずが意図せず裕也を傷つけてしまった、というシーンですし(自分がされて嫌な「無責任な同情」を裕也にしていた)、自分の母親の不倫を非難した言葉が幸を傷つけていた、というエピソード、自分が感じている母親を否定される=自分を否定される恐怖を、自分が和樹にさせていた、というエピソードもありました。このエピソードではすずは自分を「偽善者」とまで言います。

    絶対的な正義などない、というテーマはこれらのエピソードからすごく感じるのですがね。

    >彼らが自分の考えを伝えたり弁護したりする余地すら与えていませんよね。

    人を傷つけてしまった時は、自分の側にそれなりに正当な事情があったとしても、まずはとにかく全面降伏して平謝り、というのはすずとマサのエピソードにありましたw
    社会人になってこれができない人は、誰からも相手にされなくなります。

    まあそもそも、このファンの子たちってモブキャラじゃないですか。
    リアルでも通りすがりの人にそんな懇切丁寧に「説明」するというのは、あまり現実的ではないと思うのですが。
    大人でも難しいことですから、中学生にそれを期待するのは酷かとw
    彼女たちは彼女たちの仲間の間で、そういうことを学んでいくんです。

    >一方で母親に対しては「ダメ」な部分ばかりを取り上げて揶揄するばかりで「優しさ」の方にはあまり目を向けようとしていない、ように私には見えてしまいます

    それは都がまだ生きている人、だからです(笑)

    父親のように死んでしまった人からは、もうこれ以上の”被害”は受けないので、たいていのことは許せちゃいますが、生きている人は葛藤もまだ生々しいですし、ここで甘い顔をするとこの先さらに被害を受ける可能性もあるので、どうしたって厳しくなりますねw

    ちなみに都に厳しいのは幸だけで、佳乃や千佳は別にことさら都を責める描写はありません。
    それは、都が子供を捨てたことによって、長女である幸が庇護者の役割を押し付けられたから、でしょう。それによって幸は「子供であることを奪われた」わけで、その原因になった都との確執は深くで当たり前、です。旦那に逃げられたことと子供を捨てることはまったく別ですから。
    その幸の気持ちは、佳乃や千佳には多分判らないでしょう。自分が母親になったときに初めて判るのかも。

    だから都が帰った後で幸と佳乃がケンカするシーンがありましたが、あれは幸には相当ヘビーだっただろうと思います。
    佳乃に言われた「意地になってるだけ」というのは図星も良いところなのですが、幸にすれば意地でも張らないことには妹たちを守ってこれなかった、と思っているわけで。それを意地を張ってまで守ってきた佳乃に指摘されるのは堪えたろうな、と思いますね。
    すずには幸の気持ちは少しわかるかも、ですね。

    この物語って、「子供を子供として扱うこと」に拘ったエピソードがいくつかあります。
    冒頭の父親の葬式で、出棺の挨拶をすずがやってはどうか、という陽子の提案に幸が反対するシーンや、金沢の叔母が来るときに幸がすずに「挨拶だけしたら後はぼーっとしてていいから」と言うシーンなどがそうです。

    子供を子供として扱う、というのは「子供は大人が庇護する」という人間界の鉄則を述べているのに過ぎないのですが、この物語では陽子は「子供を庇護することができない人」として描かれています。
    その陽子とそっくり、と幸に評される都もそうなのでしょう。まあそれは幸たち3人を捨てて再婚した、という事実で一目瞭然ですが。

    で、陽子や都が「子供を庇護することができない」のは、自分自身が他人の庇護がなければ生きていけない「大人になり切れていない人」だからです。
    こういう人、たくさんいるなぁ・・と思いながら読んでいたわけですが、作者的にはおそらく、陽子は読者が都を理解しやすくするためのキャラ設定をされている気がします。

    でも陽子なんて、元旦那の遺産は独占でき、再婚には最大かつ絶対的な障害になるはずのすずは引き取ってもらえ、現に1年経たないうちに新しい庇護者を確保し、元旦那の一周忌をバックレるという非常識なことをしでかしながらも、周囲からは何となく許されている、という、この作品中最も幸せな人物ですよね。
    「それが幸せ?」と香田姉妹からは冷笑されていますけど(そして作者からも)、本懐を遂げることができている、という意味では本作中髄一の人です。

    都もちゃんと自分の場所で生きることができているわけで、これがもし鎌倉でずっと住んでいれば佳乃や千佳とも確執が生じていただろうことは想像に難くありませんから、相容れない人たちもそれぞれ不幸にならずに生きていけている作品だと思います。
    ・・・本作中でほぼ唯一の本物の地獄を見た人物である福田は、最後には救われてほしいな、とは思いますが。

    • 「生の感情をぶつけ合いながら肌で学んでいくこと」はもちろん大事ですが、以上の件においてすずたちがしたことは「ぶつけ合い」という双方向のコミュニケーション、学び合いではなく、一方が自分たちの傷や正当性を盾にして「間違った」「劣った」側を弁護や反省の機会も与えずに暴力的または強圧的に切断し矯正する行為に陥りかねないのではないか、というのがあくまでも私の考えです。

      flying-frogさんも仰るとおり、とくに中学生は感情のコントロールがまだ上手くできない、思考や感情に表現のスキルが追いつかない年代で、だからこそ心身ともにたがいに暴走暴発し、最悪いじめやリンチなどの行為に繫がりかねないわけで、それを抑えるためにも冷静な「言葉」による説明や相互理解の重要さというものを大人の側が伝え教えるべきだと思います。それはマンガも含めた「作品」としての表現、その姿勢においても然りです。
      すずたちの仲間や血縁たちを見ても分かるように、相手の感情や立場、空気を察する能力というのはどうしても生来の能力や育った環境などによる個人差があります。特に中学生くらいの年代だと個々の成長差がかなりありますし。それについてそうした能力に優れた側や先に長じた側が、未熟さや生育環境などでそうした能力を劣ったりうまく身に付けられていない側を「上」からの目線で有形無形に断罪し排除し、そしてそういう態度や思考をあからさまに肯定しかねない空気をどうしてもこの作品世界、端的には作者の姿勢から少なからず感じてしまったというわけです。

      すずは自分の言動で裕也を傷付けてしまったことは顧みることができましたが、それは裕也本人がすずたちに向かって同じ「仲間」として自分の感情を自分の口からはっきり吐露した、吐露できた、そしてそれが「仲間」としてあらかじめ許され受け入れられる状況にあったからです。マサの一件に対しても同様ですよね。すずたちは裕也に対しての罪悪感や反省は持てても、「仲間」でないファンの子たちに対する暴力的な行為に対しては反省どころかむしろ正当なばかりの行為と最後まで信じてやまないし、その前後の作中でのフォローもない。件のファンの子たちにとっては「憧れのプレイヤーを皆で励ましにいったらいきなりボールが飛んできたので怖かった」というトラウマになっただけの話になってしまいます。せめてすずたちの側から自分たちの言葉で「無責任な同情は止めてくれ」と一言でも添えていれば、それこそ彼女たちの学びや成長、あるいは相互の交流や理解のいい機会になったのに。せめてマサの例の一件のような程度のフォローは(作品として)欲しかった、というのがやはり正直な見解です。

      あと「旦那に逃げられたことと子供を捨てることはまったく別」というのは確かに当然ですが、その理屈は父親に対してももう少し公平に適用すべきではないのか、という発想が私などは拭いきれないわけです。たしかに「死ねば仏」とは言いますが、それを踏まえた上でもです。結婚にしても育児にしても当然ながら夫妻双方が均等に責を負っているわけで、作中において姉妹たちが再婚した母親を未だに繰り返し「捨てた」と非難し軽蔑するならそれと同等以上の非難を父親は(作中でも)受けてしかるべき。現に、前妻との娘たちを「捨てて」「再婚」した上、その後も本来なら(総じて世間のシングルマザーに求められているように)異性に頼らず娘が成人するまでは一人で踏ん張るべきところを、よりによって最もパートナーとして母親として不適格な女性との再婚でかえって娘を苦しめたわけで、その判断の過ち、子供を自力で庇護できなかった能力の欠如は都や陽子以上に指摘されねばならない。たしかに姉妹たちの立場や心情からいえば父親をある程度許さざるを得ないのは理解できるのですが、だからこそ、それこそ第三者や一読者がこういう感想なり感情なり抱くことは許されるんじゃないか、というのがこれまた率直な見解です。要は、この作品全般の視点や立ち位置がいささか姉妹たち主人公の側のみに偏り過ぎなのではないか、ということです。

  7. >未熟さや生育環境などでそうした能力を劣ったりうまく身に付けられていない側を「上」からの目線で有形無形に断罪し排除し、

    そうですか?
    対等だからこそ、生の感情をぶつけられるのではないですか?
    「上」の大人たちあるいはマサの兄たち、「下」の和樹には、すずも生の感情をぶつけるようなことはしていません。
    私が自分の中高生時代を思い出しても、このような剥き出しの感情をぶつけることができるのは、「対等」の相手に限られていました。
    それにモブキャラであるファンの子たちはともかく、マサにしてもすずや裕也、美帆は決して排除もしていません。

    「黙ってスルー」こそが「上から目線で排除する」ことではないのですかね?大勢で「黙ってスルー」することは、立派な「いじめ」ですよね。

    すずが人を上から目線で見れるほど成熟しているわけではなく、すずも自分の未熟さを思い知らされる場面は作品中に山ほどあります。
    そしてこの至近弾のエピソードは、裕也に対する配慮のなさをすずか思い知る場面でした。
    この場にヤスなど大人がいれば、もちろんアマノイワトさんが指摘するような「一方的な感情を赤の他人にぶつけることの是非」をたしなめることになったでしょうけど、少なくとも作者はそれよりも「裕也の気持ちがわかることが裕也を傷つけることがある」ことをすずが知ることの方が重要、と考えているのでしょう。

    >せめてすずたちの側から自分たちの言葉で「無責任な同情は止めてくれ」と一言でも添えていれば

    中学生でそこまで成熟していれば、それこそスペック高すぎです(笑)
    そんなの大人でも難しい。
    「無責任な同情」がなぜ人を傷つけるのかというと、それは例え無意識にでも「人をその本来の姿より『下』に見る行為」だからです。
    身障者をその人の前で「かわいそう~」などと声を上げるのは、非常に無神経で失礼な言動、というのはアマノイワトさんも同意されると思いますが、彼女たちがした行為はまさにそれですよね。
    実は私も読んでいてこのシーンは、彼女たちを「中学生にもなって恐ろしく無神経な子たち」と思いましたが・・・

    それはともかく、そういうことを赤の他人に普通いちいち説明します?
    なぜ「無責任な同情」がいけないのか、どこから説明すれば良いのでしょう。私でも赤の他人にそんな説明はしませんが。
    社会に出て赤の他人に失礼なことや人を傷つけるようなことをすれば、ノータイムで排除されるのが当然で、そこで「説明してくれないとわからない」などというのは甘えでしかありませんよね。

    彼女たちにしても、この経験を自分たちの仲間なり親なりに話せば、誰か一人くらいは「そりゃ犬や猫じゃあるまいし、人に面と向かって『かわいそう』なんて言えば怒られるのは当然だよ」くらいのことを言ってくれる人がいるかもしれません。

    繰り返しになりますが、このシーンにヤスか誰かの大人がいれば、違うシーンになったでしょう。でもおそらく作者は、このシーンはすずと裕也の関係を描きたかった、ということだと思います。
    付け加えれば、彼女たちを排除したのは一方的ではありますが、「上から」ではなく、むしろ「対等」だから、すずはああいう形で感情をぶつけたわけです。

    >(総じて世間のシングルマザーに求められているように)異性に頼らず娘が成人するまでは一人で踏ん張るべき

    ん?誰もそんなことは求めていないと思いますが。
    再婚相手が連れ子を受け入れてくれさえすれば、子連れで再婚することに何の問題もないと思いますけど。世間的にも。
    うちもそうですし(妻が二度目で子連れ)、周囲にも今さくっと数えただけで5~6組はそういう家族がいますが、別に連れ子の再婚が世間からどうこう言われるなんて心当たりはまったくありませんが・・

    シングルマザーがシングルマザーでいるのは、本人が結婚はもう懲り懲りと思っていたり、再婚の意思があっても子供ごと引き受けてくれる相手が見つからなかったりするからで、再婚しないことを世間から求められているわけではない、と思うのですが。

    >よりによって最もパートナーとして母親として不適格な女性との再婚でかえって娘を苦しめたわけで、その判断の過ち、子供を自力で庇護できなかった能力の欠如は都や陽子以上に指摘されねばならない

    パートナーとしてどうだったのかは他人にはわかりません。
    「男の女のことには例え身内でも立ち入れない」というのは確かに真理ですから。
    少なくとも陽子とその子たちにとっては、彼は良いパートナーであり父親だったことは察することができ、それが姉妹たちが父親を許す理由にもなっています。
    それはすずには酷なことでしたが、時間が経てばすずもその境遇を受け入れることができたかもしれないですよね。早死にしたのが計算外。

    いずれにしろ、人を、特に肉親を憎んだり許せなかったりしていると、本人が幸せになれません。
    この物語は、4人の親に捨てられた子供たちが、どうやって親を許して幸せになっていくか、という話です。
    すずが姉妹に加わったことで、三姉妹、特に幸は、父親を許さないということはすずの存在を否定することになる、ということに直面します。

    ここで「父親の行為とすずの存在は関係ない」というのは単なる口先だけの倫理観で、当事者にそれを言うのは言われた側からは「偽善者」にしか見えない、ということを、すずも幸も知ります。

    つまり三姉妹にとっては、すずを受け入れることによって父親を許していく話、すずにとっては自分の出自に負い目を感じることで自分の存在を肯定できなかったのが、姉たちに受け入れられることで自分を肯定できるようになっていく物語、なんですよね。

    もちろん読者が父親を非難しても良いです。
    でも、この物語で描かれている三姉妹やすずの気持ちを理解することができれば、すずたちの父親も母親も、それほど非難する気にはなれないと思うんですけどね。

    • >「黙ってスルー」こそが「上から目線で排除する」ことではないのですかね?大勢で「黙ってスルー」することは、立派な「いじめ」ですよね。

      私はこれまでのコメントでも以上の記事でも「黙ってスルー」すべきとは書いていません。むしろ逆、たとえ相容れない他人であっても一方的に暴力で排除して、しかもそれを肯定的に描くような姿勢にどうしても違和感を拭いきれない、というだけです。
      確かに社会に出た大人ならばいちいち赤の他人に対して説明や忠告はやりにくいでしょうが、成長途上の中学生たちならむしろ率直に違う立場や考えの人間に対して不満や反論も含めて言い合う、という機会を経験し学ぶことが必要だと思うし、むしろ中学生どうしだからこそ忌憚なく出来ることでは。
      確かに例の彼女たちにはいずれ家族なり他の友人なりが忠告してくれるだろうし、それが筋ではあります。しかし、私が指摘したいのはあくまですずたち(と作者)のあり方なんです。これも何度も述べましたが、私はすずの彼女たちに対する怒りそのものは妥当だと思います。ただ、それを暴力的な態度ではなく言葉で表現するべきだった、それは中学生でも決して難しいことではなかった、というのが私の考えです。「説明してくれないとわからないというのは甘え」というのは確かに一理はありますが、実際問題としてそういう「説明されないと分からない」レベルの人間だったらなおさら無言の暴力やスルーじゃ自覚出来ないですよね。

      flying-frogさんの仰る通り例の場面の本題はあくまで裕也に対するすずたちの関係や心情であり、彼女たちはそれを描くための切っ掛けに過ぎなかったのでしょうが、だからこそ、私などはかえって拘ってしまうのです。すずたちは「仲間」であるマサに対しては出来たことを彼女たちにはできないししようとしない。彼女たちはすずたちにとっては「仲間」ではないし、作者にとっては大事な主人公とその主要キャラクターではなく「モブ」に過ぎないから。しかし、その発想はやがて自分たちと同じレベルの「仲間」以外は顧みず、会話やコミュニケーションの成立しない「劣った」人種以外は断絶隔離しても構わないという、現在のいわゆる移民問題、そしてナチズムにさえ繫がりかねないと思っています(ついでに言えば、彼女たちの描写にはすずの女子として、そして作者の女性としての嫉妬のようなものが少なからず含まれているように感じます)。

      >「男と女のことには例え身内でも立ち入れない」というのは確かに真理
      まさにその理屈でもって他ならぬすずと三姉妹たちがもっぱら最大の犠牲を被っているわけですが……。
      この理屈でもって彼女たちの父親が許されるというなら、まさに同じ理屈で再婚した母親も娘たちや周囲からももっと許されていいはずですよね。
      現実には、肉親を許せなくて苦しんでいる人間より、むしろ肉親を憎めず切り捨てることができなくてその為に苦しんだり犠牲を被っている人の方が多いと思います(海猫食堂の二ノ宮さんのように)。
      すずの存在がなければ三姉妹たちにとっても、すずたちの父親およびすずの母親に対する感情や対応はもっと違うものになっていたはずで、いわばこの両名は結果としてすず一人を生んだことによって自分たちの罪をさほど問われずに済んでいるどころか(むしろ責める側が悪者扱い!)あまつさえ死んだことによって当の犠牲者である娘たちからも許されてしまっているのだから、正直なところ、作中でいちばん狡いキャラだと思いますね。

  8. >ただ、それを暴力的な態度ではなく言葉で表現するべきだった、それは中学生でも決して難しいことではなかった、というのが私の考えです

    それはどうかなぁ。
    このシーン、身障者に対して無責任に「かわいそう~」と面と向かって言うという、聞いていたのがまったくの第三者であってもちょっと顔色が変わるくらいの場面です。
    まして他の仲間たちは、足を失った裕也にどう接したらいいか判らず、各々が悶々としていたところで、です。
    これは大人でも言葉で説明するほど心に余裕を持つのは難しい、と思うのですが・・

    アマノイワトさん、本作に登場する中学生たちのスペックが高すぎてリアリティがない、と仰ってますが、ぶっちゃけここが一番要求スペックが高いです。
    もしくは、この場面ですず(と周囲の仲間)が彼女たちから受けた衝撃と怒りを過小評価しているか、だと思いますよ。

    >その発想はやがて自分たちと同じレベルの「仲間」以外は顧みず、会話やコミュニケーションの成立しない「劣った」人種以外は断絶隔離しても構わないという

    ここが飛躍しすぎです。
    同じレベルをもって「仲間」としているわけではなく、現に彼らはマサも仲間として認めています。また彼女たちも「劣って」いるから排除したわけではなく、単に自分たちを傷つけたからです。

    ちなみに第三者である私は彼女たちを「劣っている」とは見ていませんよ。
    この場ではまるきり人の気持ちが判っていない言動をしましたが、帰宅して両親から諭されるかもしれないし、仲間たちから学ぶかもしれない。学ばないまま成人してしまったら苦労するとは思いますが、ここで無神経な言動をしたのをもって上も下もないでしょう。
    すずたちが彼女に説明しないのは、下だからではなく単に「キレてしまったから」です。すずがマサに切れたシーンでも、すず自らマサに説明などしてないでしょう?

    レベルとか上下に拘るのは、それこそナチズムに直結する思想ですぜw

    仲間というのは、ある種の信頼関係で結ばれた集団のことを言うのですよね?
    説明する、というのは相手の非を挙げることですから、その信頼関係がないとできません。特に中学生くらいの未熟で説明の仕方が下手な年代にとってはなおさらです。

    そもそも、これだけすずだけではなく他の登場人物も「多様な立場」を思い知らされ、自省ばかりしている漫画で、この一点をもって「ナチズムに繋がる」と拘る理由が私にはよく判りません・・

    >まさにその理屈でもって他ならぬすずと三姉妹たちがもっぱら最大の犠牲を被っているわけですが……。

    そのすずたち四姉妹が許しているのを、他人がどうこう言うのは無意味、というかそれこそ「無責任な同情」というやつでしょう。
    特に、
    >まさにこの男こそがどう考えても諸悪の根源、作中最悪最低の意志薄弱無能KY駄目人間と言っていいはずの人物
    というようなことを、彼女たちに直接言うと、多分彼女たちを傷つけますw

    >むしろ肉親を憎めず切り捨てることができなくてその為に苦しんだり犠牲を被っている人の方が多いと思います

    そこ、ちょっと違うと思います。
    肉親はどのみち切り捨てられないんです。すずたちの父親や母親のように、縁を切ったように見えてもいろいろな場面で図らずもつきまとうのが肉親です。
    だから、「切り捨てられない肉親を憎まねばならないから苦しむ」のです。二ノ宮さんもそのパターンにどんぴしゃりです。
    二ノ宮さんの場合、悔しかったでしょうが福田の意見に従って遺産相続について小細工を弄さずに弟に取るものは取らせた、つまり完全に許したわけではないけれど少なくとも受け入れたから、まだ穏やかに逝くことができた、という描写でしょ、あの葬式の「綺麗なものを綺麗だと思えることが嬉しい」というセリフは。

    >あまつさえ死んだことによって当の犠牲者である娘たちからも許されてしまっているのだから、正直なところ、作中でいちばん狡いキャラだと思いますね

    狡いかどうかは知りませんが、幸運な人物だとは私も思います(笑)。
    でも、そのすずを誰からも好かれる素直な子に育てた点については、すずの両親の得点だと思いますけども。

    陽子についても、中途半端なダメ人間ではなく、初見で三姉妹に「この人では無理」と見破られるほどの徹底したダメ人間だったからこそ、すずが三姉妹に素直に引き取られることになり、そのことによってすずも三姉妹も幸せになっているわけですから、かなりの強運の持ち主ですよ。
    まして陽子はよく考えると、遺産は独占できて再婚には最大かつ絶対的な障害になったであろうすずも、普通ならそう簡単にはいかない香田家にあっさり”押し付ける”ことができ、1年経たないうちに次の庇護者をちゃっかり確保して前夫の一周忌もバックレるという開いた口が塞がらない暴挙をしでかしても、何となく許されてしまっているという、ある意味すずの両親以上に幸運な人物だと思いますが。

    でも、そんな「しでかしたことに等しい報いを受けるべき」という「倫理観」あるいは「価値観」より、今生きている人たちが幸せになることの方が大事なのではないですか?
    ということが、この物語を貫く「価値観」だと思います。
    それに共感できなければ・・・まあ仕方ないですねww

    • >そのすずたち四姉妹が許しているのを、他人がどうこう言うのは無意味、というかそれこそ「無責任な同情」というやつでしょう。

      仰る通りかもしれませんが、肉親がなまじ情や色んなしがらみで非難や文句を言えないからこそ、第三者がきっちり批判しておく必要が有ると思います。
      もちろん、さすがに当人たちには直接は言いませんけどね。
      それこそすずが裕也のために件の彼女たちにしでかした行為と同じ事ですよ。

      あと、陽子は別に何となく許されてなどいないと思いますが。すずには内心嫌われ姉妹たちには呆れられ、地元では陰口を叩かれ白い目で見られて帰るにも針のむしろだろうし、だからこそ一周忌には出られなかった。上の息子は同居を嫌がって離れてしまうし、いずれ下の息子とも軋轢が生じるだろうし、現在の夫とも長続きするかどうか分からない。
      そして、なにより、そんな徹底したダメ人間を選んでしまったのは他ならぬ姉妹たちの父親なんですよね。そもそも父親が再婚さえしなければ、すずはいずれ鎌倉の姉妹たちか金沢の伯父たちの元にすんなり引き取られるのが決まったでしょうし、遺産も取られずに済んだ。正直、すずたちの父親が女だったらDVやヒモ癖のある男に次々引っ掛かって離婚再婚を繰り返すタイプでしょうね。そして、そんな女は大抵周囲からは陽子なみに呆れられ非難されるものですが、男だと何となく許されてしまうものなんですね……(^_^;)。

  9. >肉親がなまじ情や色んなしがらみで非難や文句を言えないからこそ

    ここ、違います。
    「許す」あるいは「受け入れる」というのはそういう心の状態ではありません。
    文字通り、許す、あるいは受け入れる、としか言いようがないのですが、ダメなところも含めてその人を心から許しているので、しがらみや情で文句を言えない、という状態とは根本的に違うのです。

    第2話で幸が、葬式に行くように勧めて(おそらく)車まで出してくれた椎名に、「葬式に行けて良かった」と言うシーンがありますよね。
    その時、幸は「葬式に行かなければ父親を一生許せなかった」と言います。
    つまり幸はこの時点で父親を許すことができた、ということを意味しているのですが、それを椎名に感謝していますよね。
    それは父親を許せないままだと、幸自身も不幸だからです。父親に対する憎しみや恨みから解放されたから、椎名に感謝しているのです。

    情やしがらみで文句を言えない、という状態なら、こういう心境にはなれませんよね。

    だから、それを当事者でもない第三者がとやかく言うのは無意味、と言っているのですよ。

    >第三者がきっちり批判しておく必要が有ると思います

    それはどうしてですか?
    当事者が不幸になっていないのに?
    それは「不倫は悪」、「家族を捨てるのは悪」という「価値観」によって、ですか?
    それこそが「一方的な価値観を正しいと信じてそれにそぐわない者を一方的に断罪する行為」なのでは?

    不倫が悪という価値観はたかだかここ数十年で世の中の主流になった価値観ですし、親のために子が犠牲になるのが道徳、という価値観が世の中を支配した時代もありました。今でも儒教が支配的な韓国などではそちらに近い価値観です。
    少なくとも絶対的に普遍的な「価値観」など存在しません。

    >すずには内心嫌われ姉妹たちには呆れられ

    それ、本人は気づいてもいないでしょ。
    気づいたところで、既に彼女にとって四姉妹は「無関係な人たち」ですから、痛くも痒くもないです。

    >地元では陰口を叩かれ白い目で見られて帰るにも針のむしろだろうし

    この手の人はそんなことはたいした問題ではありません。
    自立しておらず庇護者がいないと生きれない陽子は、「庇護者」たる飯田氏にさえ受け入れてもらえれば問題ないです。
    だから一周忌をバックレることができるんですよ。
    陽子がそういう人であることは、通夜や葬式で既に描写されています。

    >上の息子は同居を嫌がって離れてしまうし、いずれ下の息子とも軋轢が生じるだろうし

    それは陽子自身が、男と子供を天秤にかけて男を選んだ、ということでしょ。陽子は本懐を遂げていますよ。

    都もまったく同じことをしています。
    娘3人を捨てて男を選び、自分の母親の葬式に出たきり、この物語で登場するまで法要もすべてバックレています。
    物語で久しぶりにやってきたのも、「家を売る」という提案をすることが目的だった気配が多分にありますし。

    >現在の夫とも長続きするかどうか分からない

    それはそれこそ判らない話です。
    都は長続きしているようですし、長続きしないと考える理由は特にないです。

    >すずたちの父親が女だったらDVやヒモ癖のある男に次々引っ掛かって離婚再婚を繰り返すタイプでしょうね

    そうとは限りませんよ。
    どうも誤解されているようですが、陽子や都が「ダメ女」として弱点を露呈しているのは、「庇護者である夫に逃げられた or 早死にされた」からです。
    現実にもこの手の人は男女問わずたくさんいますが、特に庇護者をなくす不幸に見舞われなければ、自分の庇護者としての資質を問われることはないわけですから、普通に生きていけるものです。

    >そんな女は大抵周囲からは陽子なみに呆れられ非難されるものですが、男だと何となく許されてしまうものなんですね

    すずの父親が作中で許されているのは、三姉妹が父親を許しているからです。
    そして三姉妹が父親を許したのは、そうしないと自分が幸せになれないからです。また父親を糾弾することはすずの存在を否定することに直結するからです。

    だから「陽子並みの女」というか陽子そっくりと娘たちから評されている都も、最終的に許されているでしょ?

    • 私がここで「不倫」を責めるのは社会的に「悪」という価値観だからではなく、まして道徳や儒教の観点などからではなく、ただただ、不倫という行為がパートナーとその間に出来た子供の心と尊厳を踏みにじる行為だからです。(中には双方割り切っているカップルもいるにはいるのかもしれませんが……)。
      三姉妹の父親そして母親に対する憤りというのも彼らの行為が社会道徳や規範に反しているからではなくて、たとえ彼らがどう弁解しようと子供である自分たちより新しいパートナーへの愛情を優先した、という事実を目の当たりにしたからですよね。
      しかし、本来その最大の犠牲者である子供たち当人がそれでも許す、と言う以上は確かに第三者があれこれ言うのは余計なお世話でしかないのでしょう。
      それでも、私などはやはりどうしても釈然としないものが拭えないのですね。うまく表現できないのですが……。

      結局、あれこれ屁理屈を繰り返してしまいましたが、正直なところを言ってしまうと、ただただこの私がこの物語の姉妹たちのような人たちが単にただ苦手で、さらに白状すれば姉妹たちの母親のほうに近い人間だから、というだけの話なんですね(^_^;)。だからこそ姉妹たちがどんな決断をしたとしても元から理解しきれないし釈然とできないんでしょう(^_^;)。
      しかし、世間的には姉妹たちの振る舞いや考え方のほうが当然正しく、「大人」としてあるべき、目指すべき姿であり、あらためるべきは私のほうに違いないので、またあらためて『海街diary』を再読してみます。

  10. >正直なところを言ってしまうと、ただただこの私がこの物語の姉妹たちのような人たちが単にただ苦手で、さらに白状すれば姉妹たちの母親のほうに近い人間だから、というだけの話なんですね

    何となく判りますww
    都も幸には苦手意識持ってますものね(笑)

    >ただただ、不倫という行為がパートナーとその間に出来た子供の心と尊厳を踏みにじる行為だからです

    もちろんそのとおりです。
    でも、踏みにじられた子供たちはどうするか?という話なわけです。この物語は。
    不幸になるのは彼女たち自身ですから、それを父親のせいだと責めても彼女たちは幸せにはなれないわけです。他人を強く憎んだり恨んだりする気持ちを持ったまま幸せになることはできないので、許すか受け入れるかしないと・・・という物語なんですよね、この話は。

    >世間的には姉妹たちの振る舞いや考え方のほうが当然正しく

    もちろん世間的に正しいのは、不倫を責める側の立場です(笑)
    彼女たちは正しいからではなく、単に自分たちが生きるために父親や母親を許し受け入れているだけです。

    私は一周忌で山形に行くエピソードが好きですね。すずと和樹とのやり取りはちょっとグッときます。
    すずが高校進学を悩んで決めるあたりも好きです。このエピソードも、すずの背中を押すのが大人ではなく風太、というあたりが良いなw

    今、コミックスを人に貸していて、今週中には戻ってくるはずなので、私もまた読み返しますww

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