※作品のネタバレを含みます。
毎年、八月が巡ってくるたびに日本では原爆祈念日、終戦祈念日などを迎えてさまざまな行事、特集などが組まれておのずと感慨を興させるのだが、さすがに戦中生まれの世代が少なくなり、それほど大々的に取り扱われることはなくなっているような気がする。それでも、幾多ものいまだに戦後生まれの中年以降の世代にも少なからぬ衝撃を与え、読まれ語り継がれ続けているのが中沢啓治・作『はだしのゲン』であろう。
はだしのゲン 第1巻 青麦ゲン登場の巻
中沢啓治
原爆の惨状を中心に、戦中戦後の数多の混乱や困難に真っ向から立ち向かいひたむきに逞しく生き抜く少年・ゲンとその仲間、家族たちの生き様は現在に至るまで多くの読者にインパクトを与え続けている。それは時に、やや古くさい絵柄と大仰でベタ過ぎるストーリーと演出がパロディとしてネット上でしばしば取り上げられ定番になっているネタもある、という形でもあったりするのだが、作者の中沢氏としては「とにかくどんな形を使っても子供たちに原爆と戦争の恐ろしさを伝えたい」という意向であったようで、アニメ映画やミュージカル、近年ではドラマ化もされているほか、こんなサイトも公認してしまうぐらいの勢いであった。
(『はだしのゲン』公式サイト。とにかくキッチュでキャッチーでサービス精神がありすぎて凄い)
1995 Gen Production – Home of KAK-A
このサイトひとつ取っても分かるとおり、『はだしのゲン』は単なる「反戦と平和」を主張するだけの「健全な」マンガではない。むしろ戦時下そして原爆投下後の苛酷な状況下において、ゲンとその一家をとりまき、あるいはすれ違った人々を通して相次いで展開するエピソードにおいて人間の本性、欲望やエゴによる醜悪ぶりの数々を衒いもごまかしもなく描きだす。被爆者への偏見や迫害、差別をはじめ、戦後の混乱期におけるヤクザの台頭や戦災孤児の生き様、パンパンと呼ばれた娼婦の存在や在日朝鮮人の朴さんのキャラクターなど、学校の教科書からはまず知ることができなかったものであり、こうした時代の世相や空気そのものをリアルに体感させてくれる、という意義も極めて大きい。連載誌が『少年ジャンプ』から移った第二部は掲載誌のイデオロギーや作者の主張が強く出過ぎているところがやや不評ではあるが、子供向けの制約が無くなったせいかより生々しい描写が多くなり、また、ゲンの努めた看板屋の先輩や初恋相手の父親などいっけん敵役として登場しながらそこに至るまでの背景がじっくり用意されていたり、より深みのあるキャラクター描写が増えているように見える。
はだしのゲンってけっこう過激な主張がおおいよね:哲学ニュースnwk
なにより極めつけは終盤、隆太の孤児仲間・ムスビの薬物中毒死のエピソードにおいて、彼を騙して麻薬を売りつけたヤクザを皆殺しにして復讐を果たした隆太に対して、ゲンと孤児仲間の勝子が熱弁する主張というのが戦後の人間から見ると過激というか物騒そのものの超理論で、天皇を「最高の殺人者」呼ばわりしたのを皮切りに、「戦争を始めた天皇や大臣や軍人こそが許すべからざる大殺人者であり本来罰せられるべきなのだから、お前が刑務所に入る筋合いはない」と断言して彼を逃がす場面など、これほどの超展開が全国の小中学校の図書館で子供たちに読まれていると思うと何気にすさまじいものを感じる(しかし、作中では隆太のアナーキーぶりがインパクト強いが、やっぱりゲンがいちばんぶっ飛んでると思う)。
はだしのゲン 第10巻
中沢啓治
『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <10> 「黒い雨にうたれて」 | ヒロシマ平和メディアセンター
『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <11> 原爆漫画 | ヒロシマ平和メディアセンター
そのような作者も、マンガ家として駆け出しの頃までは偏見による差別にじかに遭い、被爆者であることを隠しその体験を封じ込めていたが、母親の死を切っ掛けに「原爆」を題材とする作品を手掛けるようになるが、それらが『黒いシリーズ』と呼ばれる一連の短編である。
中沢啓治著作集2 黒い雨にうたれて1巻
中沢啓治
『はだしのゲン』と異なり最初から大人向けを意図して描かれたこれらの物語は、さらに被爆者や戦争の犠牲者が置かれた現実を重いタッチで描き出している。『ゲン』はそのストーリーのなかに苛酷な出来事や背景を次々に容赦なくはさみながらも、ゲンのやはり少年マンガ主人公の王道を行くピュアなまでの正義感と情熱、そしてそれを引き立てると同時に異なるダーティーヒーローの魅力を発揮する隆太のバイタリティが、物語を通じて失われない明るさと希望、そしてエンターティメント性をもたらしていたのだが、この『黒いシリーズ』の人物たちは総じてかつての記憶そして被爆の後遺症に苦しみ続け、自らの人生にも社会にも未来を見出せずに、それでもただ黙々と、あるいは刹那的にその日その日を生き続けている。これらの作品が描かれた60年代後半から70年代初めに掛けての時代には、高度成長期の繁栄の中ですでに戦争の惨禍の記憶は薄れつつあるどころか、冷戦という新たな世界戦争の脅威が現実味を帯びつつあったのだ。かつてのゲンや隆太のような少年少女たちが成長し、あるいはその両親たちが生き延びて年老い、否応なしに変貌していく社会の中で救われていくどころか、戦争の記憶とともに打ち捨てられ偏見や無理解、無関心の中に捨て置かれている。
「黒いシリーズ」はこのような戦後20数年を経た社会の中で、物語のそれぞれの人物たちがささやかながらもその残された生を、そして文字通り命がけの抵抗と叫びを真っ正面から描き出していく。表題作の『黒い雨にうたれて』はB級ハードボイルドの体裁を取りつつも、驕慢なアメリカ人たちを闇に葬る被爆者の殺し屋と原爆症に苦しむ父子の交流を通して原爆の惨状に加えて、国からの援助の乏しさによる貧困や差別も訴えている。そして、これまた当時にありふれていた被爆者への就職差別そして結婚差別の悲劇を描いた『黒い糸』と『黒い川の流れに』。『黒い糸』では被爆二世の娘とその父との互いを思う故のすれ違いの悲劇が痛ましく、このシリーズの中でも最も暗い読後感を残す。一方の『黒い川の流れに』では横須賀を舞台に結婚の夢に破れて原爆症で余命わずかと知り、復讐のために米兵相手の娼婦となった女とその幼い息子、彼女を愛した戦災孤児のチンピラとの絆がささやかな希望となるのだが、現代の貧困シングルマザー問題とも重ね合わせて読めるだろう。
『黒い鳩の群れに』も同様の被爆による差別と偏見からもたらす貧困の悲劇を描いたもので、客も怯えて逃げ出すほどの酷いケロイドを負った娼婦の妹は、傍目には自分に辛く当たっていた兄の遺志を受け継ぎ「真っ黒に押しつぶされた平和の鳩」として夜の、そして社会の闇に堕ちていく。国からの援助や保護を拒否して共に泥にまみれ手を汚しても身ひとつで生きる決意をしたこの兄妹の選択は決して世間的には正しいとは言えないだろうが、その選択と生き様そのものが国そして世間そのものへの復讐であり戦いだったのかもしれない。『黒い沈黙の果てに』ではまさに個人による復讐、テロが果たされるのだが、それでも当の被爆青年の怨念は癒されることはなく、しかしその叫びを唯一受け止めた恩師は新たな形での「戦い」を決意する。そして『黒い蠅の叫びに』では原爆で妻子を喪った孤独老人が白血病の少女との交流と別れを経てトラウマを克服すると同時に世界への怒りを新たにする。いずれも原爆そして戦争によって未来を奪われた若者たちの行動が、辛うじて生き残った老人たちの再生をうながすという構図である。
私的に印象深かったのが『われら永遠に』で、医大志望で上京してきたは良いが挫折して自堕落な日々を送る青年がこれまた原爆で妻子を喪ったタクシー運転手との諍いをきっかけに紆余曲折を経て結局は向上心を取り戻すのだが、冴えない日常で燻っている若者(つまり今の団塊世代)が「戦争」を大義名分にした閉塞の突破口やロマンを求めるという図式はすでにこの頃からあったのだなあ、と妙に感心した。そして『黒い土の叫びに』では今で言うところのニート青年と行商の老女との人情話めいたエピソードでユーモラスな描写もありシリーズの中ではもっとも穏やかな雰囲気だが、青年が生への意欲を獲得すると同時に彼なりのささやかながら新たな「戦い」に乗り出していくのだろう、という予感を残してラストを迎える。
これらの作品を通して否応なしに伝わってくる熱量、情念というのは通りいっぺんの反戦や平和イデオロギー、ヒロイズムに依るものではない。いずれも作者そしてその親兄弟、友人たちの実体験に基づくメッセージ、と称するにはあまりにも生ぬるいほどの鮮血の感触と焼け焦げた肉の匂いを伴い、こちらの臓腑をも抉り出してくるほどのものであり、そして間違いなく平成28年の現代にも通じうるものなのだ。そして、たとえ日本では原爆も戦争も遠い記憶の彼方、歴史の一幕となりつつあっても、いったん世界に目を向ければ、原爆や空襲レベルの惨状そして悲劇が現在進行形で生じ続けている場所は至るところにあるのだ。
「反戦」「平和」とは言っても、作者はなにも「戦い」そのものを否定しているわけではない。むしろ『はだしのゲン』を筆頭に国家権力から周囲の権威を振りかざす狡猾な大人たち、我欲のために他者をだまし食い物にする悪党にいたるまで、権威も権力も財力も持たない無力な個人を脅かし利用する存在に立ち向かう「戦い」、そしていかなる不条理で困難な状況にあっても絶望せず生き抜くための「戦い」はむしろ積極的に勧めているのである。それは隆太のように銃を取ることだけではなく、ゲンのように絵筆の力で怒りと希望を世に訴えていくというやり方であったり、『黒いシリーズ』の登場人物たちのように不条理を憎み呪いながらも自分に与えられた運命そして使命を生き抜くことであったり、そしてごく普通に地に足を付けてただ前向きに日々を生きることであったりする。
思想信条や立ち位置を問わず、強大な少数の権力の暴走やエゴによって個人の存在、人生、尊厳、意志、希望が踏みにじられ顧みられないという状況が作者がもっとも憎むものであり、そのあらゆる憎むべきもの象徴が「戦争」であり「原爆」だったということだ。そのように個人が有形無形に抹殺され抑圧される状況をもたらすのは決して「戦争」や「原爆」のみではない。そして、それらに立ち向かう原動力になるのはどのような思想やイデオロギーよりもまず、個人の意志であり希望でありそして個人どうしの絆である。
無数の無名の無力な個人たちがそれぞれに与えられた宿命の中で、それぞれの持ちうる力を振り絞ってその生と尊厳を守り抜く戦い、それが『はだしのゲン』そして「黒いシリーズ」などの一連の中沢啓治作品が描き訴えたことであり、それらの作品そのものなのだ。そして、「黒」というのはすべての光を呑み込む闇を象徴すると同時に、あらゆる色を混ぜ合わせ内包するもっとも豊かな色でもあるのだ。