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(更新:2023年9月9日)

【感想・批評】マンガ『ど根性ガエルの娘』—「大人」と「子供」の相克の果てに—

名作マンガ『ど根性ガエル』の作者、吉沢やすみの娘で同じくマンガ家の大月悠祐子がみずからの家庭の過去の内情を描いたエッセイ漫画『ど根性ガエルの娘』が、先日ネット掲載された最新15話の衝撃的?な展開で物議を醸している。

ど根性ガエルの娘 ・ ヤングアニマルDensi ど根性ガエルの娘 ・ ヤングアニマルDensi

エッセイ漫画『ど根性ガエルの娘』15話 全てひっくり返る衝撃の展開に戦慄…田中圭一『ペンと箸』と併せて読むとより恐ろしい – Togetterまとめ エッセイ漫画『ど根性ガエルの娘』15話 全てひっくり返る衝撃の展開に戦慄…田中圭一『ペンと箸』と併せて読むとより恐ろしい - Togetterまとめ

虚実の彼岸 ど根性ガエルの娘 – Everything’s Gone Green 虚実の彼岸 ど根性ガエルの娘 - Everything's Gone Green

私などは今まで、この作品に対してはそれほど真面目に追いかけていたわけではないのだが、多少なりともひそかな不穏さやギリギリまで抑制された怨念のようなものはそこはかとなく感じてはいたものの、当の家族の了承も得ているということだし、なにより現に不惑を過ぎた相応のキャリアのある作者が商業誌に「作品」として描く以上ある程度は本人の中でも「過去」としてケリは付いているのだろう、となかば信じ込んでいた。というより、その実そのように思い込みたかったのだ。やはりどこかしら、無責任な一介の読者として期待通りの予定調和を気楽に受け取って消費したい、というエゴやある種の逃避願望が勝っていたのである。しかし、この最新話を目の当たりにして、やはり当の作者にとってはこれらは未だに厳然たる現在進行形の問題であり、なにより、どれだけ両親それぞれの悔悟を知り謝罪を受け取ったとしても、その家族とおのれとの過去、そして現実の認識においては絶望的な隔絶がなかば永久に存在し続けるのだという紛れもない「真実」をあからさまに叩き付けられたわけだ。

以上の最新話、そして田中圭一の『ペンと箸』の当該のエピソードなどを踏まえたうえであたらめてこれまでの『ど根性ガエルの娘』の各話を順次追っていくと、作者は決して意図して「どんでん返し」や叙述トリックめいた効果を狙って読者に衝撃を与え溜飲を下げたかったわけでも、突然に考えを翻して両親への「復讐」を計画して暴露めいた描写を行いたかったわけではないと思う。この15話に至るまで、各話はそれぞれこの作者一家の「荒んでいた過去」と「無事に団らんを取り戻した現在」を交互に対峙し、両親の馴れ初めや孫と祖父との交流といった微笑ましいエピソードも時折挟みつつ進行していく。その構成はもちろん一定のストーリーの形式にのっとったうえでの、読者の側の期待する予定調和、つまり「感動の家族の再生ストーリー」の枠に順当に沿っているようにみえる。しかし、よく向き合って観れば、構成演出ともにその枠組みをなぞりながらも、その一見端正かつ強固な枠や演出のオブラートの隙間から、抑えきれないマグマのように作者の不穏な鬱屈や生々しい傷痕のようなものがはみ出し漏れ出してきて、それが回を追うごとに覆い切れないほどに露わになっていくのが分かる。つまり、連載の裏での作者と父親の間の「事件」や先の連載元との方針との齟齬などがおそらく直接の引き金になったとはいえ、この15話の展開、描写というのはやはりごく自然な帰結でしかあり得なかった、と思えてしまうのだ。おそらく、作者があえてプロの商業作家としての計算なり、ひとりの「大人」としての自制なりをもってして、想定する読者層にとっても編集サイドの意向にとっても望ましいような決着、回答を幾度となくめざして行こうとも、他ならぬ大月悠祐子自身の深層の意識、いわば彼女があの幼年時代から長年秘めていた素の叫び、決して回復することのない少女の頃の傷がひとえに現在のような着地を切望し、それは前者たちによってはとうてい抑制しうるようなものではなかったのである。

むろん、元の連載先の編集者にせよ、『ペンと箸』における実弟や田中圭一にせよ、決しておのれひとりの利益や打算、まして保身のみであのような方針や態度をとったわけではないだろう。彼らはそれぞれの立場において、それぞれの読者あるいは周囲の関係者そして他ならぬ家族への配慮などを、それぞれの責任を負うべき家庭人そして職業人、そしてひとりの「大人」としての理性において抑制して穏当に行っただけだ(ちなみに『娘』作中では過去の実弟の視点での描写もきっちり立ち入って行われている)。そして大月にしても当初は自らの職業作家としての立場をまっとうする心構えは十全に備えているつもりだったのだろうし、だからこそ、この『ど根性ガエルの娘』の創作そのものに手を付けられたわけで、その時点で自分には過去はひとつの「過去」としてある程度昇華し距離を置いてながめ扱うことができる、曲がりなりにも実社会でのプロの作家としての経験やキャリアを経てそれだけの心身の成熟にすでに達しているはず、という自負もそれなりにあったのだろう。しかし、いざ作家として作品に取り組み、おのが過去にも家族たちにもあえて真正面から向き合ううちに、そうした「大人」としての理性なり自制をもってしてもなお抑えきれぬほどの少女時代の深手、忘れ去ることができずまして癒すこともできない怒り、他ならぬ我が肉親たちによって無残に踏みにじられたかつての「子供」としての内なる叫びが、虚実ともに「感動の家族の再生」という名の「物語」を良しとしなかったのだ。そして、そのなお疼き続ける傷、おのが記憶の中でひとり絶望し嗚咽しながらうずくまり続けるひとりの「子供」の存在から目を逸らし続けることは、かつての「子供」の成れの果てであるひとりの人間としても、なによりひとりの創作、表現に携わる人間として、どうしても耐えられず、むしろある意味では誠実さに欠ける行為だ、と考えたのにちがいない。

たしかにそれは傍目にはこれまでに(辛うじて)保ってきた作品全体のバランスを破壊しかねない展開ではあったし、一度は周囲にも自身にも納得づくで決定した(商業上の)方針をもっぱら「個人的」な都合でひっくり返したのみならず関係者の幾人かを恣意的にネガティヴな印象を与えたと取られかねない描写などには、プロの作家の態度としてアンフェアに過ぎるのではという考えもあるし、実際にそのような批判も散見された。そもそも、過去それも子供時代のトラウマに執着してしかも肉親に対する不満や恨みを公表するという行為は、ごく一般には未熟で見苦しい所行、まさに真っ当な「大人」としてふさわしくないものと見なされている。たしかに、誰しも完全な人格者ではない以上、つねに理想的に振る舞える親というものは存在せず、実際に親は親である以前にひとりの生身の不完全な人間としてそれぞれの苦悩や足掻きを経ているのであり、事実、作者の肉親たちにもひとりの男そして女として、あるいはひとりの表現者としての葛藤や試練を味わい、この作品においてはその壮絶な苦しみにもきっちりと目が向けられている。むろん、そうした肉親たちの過去も傷もすでにひとりの「大人」として成長して久しい作者自身は充分に理解している。しかし、それでも作者にとっては、それらをもってして彼らを赦したうえでの「更生」という名の現在そして未来を、周囲にも自分自身にも描いてみせることはできなかった。たとえ件の事態に遭ったうえでも、周囲のフォローを借りてでもぎりぎり職業人として「大人」として作品の体裁を繕うことはまだ可能だったかもしれないし、しかしそれを阻んだのは直接には父親の重態だっただろうが、なにより、ひとりのかつての傷つけられた内なる「子供」の存在が、そして「表現者」としての自分が許さなかったのだ。このまま何かから目を逸らしあえて抑えつけて、作品上でも現実でも体裁の良い「物語」を造り続けてみせることは、まさにかつてこの自分を犠牲にし存在を無きものとすることで、しかもその目前でともに楽しく(自分抜きの)食卓を囲みつつ「家庭の団らん」という物語を辛うじて描き、ようやく自分たちの一時の平穏を手に入れもろく危うい自我を保っていた過去の両親、そして現在の父親と同じことになってしまう。そしてそれこそがひとりの「表現者」として、そしてひとりの独立した個人としてのアイデンティティそして矜持、尊厳に背きかねない、と思い至ったのではないか。

けだし「大人」になるということは「子供」がなんらかの劇的な試練を経たうえで心身ともに脱皮し生まれ変わり成長していくようなものではなく、未熟でもろい「子供」の自我にあえて常識や経験、もしくは慣習や老化という名の被服なり被膜なりを自ずから覆い被せていくものだと思う。しかし、なんらかの過去や過程でそういう覆いを上手く創りきれなかった人間というのは存在し、それらの多くは以上のような犠牲や排除、黙殺の過去や、まさに現在進行形で何かやどこかからの犠牲、抑圧、妥協などを余儀なくされている人々だと思う。要はまさに、なんらかの「物語」や調和のために黙殺され続けた異端や弱者……梨もとい焼肉を頬張って談笑している肉親や同胞たちの影で、ひとり咽び泣いていたかつての「子供」たちのことだ。

誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話 – 誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話 -

おそらくこの『ど根性ガエルの娘』という作品、このひとつの物語においては、たとえば作者の弟さんなどは、その過去の「物語」においてあえて何かを封印し犠牲にすることでまっとうな社会人そして家庭人として自立し世界にも両親にも認められ、そしてひとりの「大人」として生き延びることができたのだろうし、ただしそれは自身にとってもまた取り返しのつかない犠牲と断腸の思いをともなうものだったろう。しかし、それを踏まえたうえでも、この姉の大月悠祐子のほうは、そうした心身ともに真っ当な「大人」としての選択を、この最新15話を描くことであえて完全に捨て去ったのだ。たとえそれが誰かの、なにかの期待に背く「物語」の結末を招き破綻を生じることになったとしても、他の誰かが梨もとい焼肉を食べ、そして生き延びるための犠牲となったかつての自分、さらに世界に存在し続ける梨もとい焼肉を食べられなかった「子供」たちとともに生きる「表現者」としての道をふたたび選択したのである。

そしてやはり、真の表現者の在り方とは、未だにそうしたどこかの世界で求められ繰り広げられているあまたの「物語」の影で、いまだ梨もとい焼肉を口にすることができないままに葬り去られているすべての孤独な「子供」たちに目を向けることであり、あるいは誰かの、なにより常には自身の心深くに包み込み覆い隠しているものの正体、ありのままの「子供」の姿を常に感じ取って目を背けることができない人間のことなのだ。そしてさらに、この世界のどこかの誰かにとっての、そして我が内なる「子供」の存在に目を向け、その叫びに耳を傾け続け、その思いを代弁し続ける人間のことなのである。

蛇のごとく粘着だが、羊のごとく惰弱。

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