11月 172015
 
アイキャッチ画像 『おそ松さん』 Amazon.co.jpより
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http://osomatsusan.com/

今期、大方の予想以上に大々的な(腐女子)人気を巻き起こしているアニメ『おそ松さん』だが、私的には現状の腐女子間でのブームに対してはまったく驚きでも意外でもなかった。だいたい「目下の人気声優をかきあつめて演じさせるそろってイケボでファニーフェイスでそれぞれに個性的でおバカな兄弟たちが一つ屋根の下で暮らし始終じゃれ合いつるみあってはゆかいな仲間たちとお馬鹿な騒動を繰り広げる」という設定の時点で、腐女子にとっては蟻の行列に砂糖を一袋ごとぶちまける、もしくは鴨の大群がそろって葱と割り下と七味と鍋とコンロと包丁とまな板を背負って突入してくる、どころではない所業なのだ。むしろこの事態や結果を逐一懇切説明されないと理解できない人々がいる、という事実のほうがよほど驚きであり理解に苦しむところだ。私など、このだいたいの企画や設定を知った時点で正直あまりにもあざとすぎて辟易というか、実食前からお腹いっぱい、あたかも芥川龍之介の小説『芋粥』での赤鼻の五位のような心境になってしまっていた。

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おそ松さんは、記号化と清潔感によって二次創作人気を得ているのでは おそ松さんは、記号化と清潔感によって二次創作人気を得ているのでは このエントリーをはてなブックマークに追加

というわけで、加えて80年代末期に放映の『おそ松くん』第二作アニメにリアルタイムで夢中になっていたという思い出、思い入れもあって、この『おそ松さん』の方の放送はむしろかなり醒めた気持ちで見守っていたのだが、果たして、あの問題の第一回において、制作陣はそうしたありふれた腐女子の予想や期待などとっくにお見通し、と言わんばかりに見せつけそれらをぶち壊した上で、しかもその上で期待以上に作り込んだ萌えとギャグをきっちり提供してみせる、という凄腕と精緻な戦略を見せつけたわけだ。実をいうと私があらためて感心し驚愕したのは、その制作陣がさまざまに工夫し考え抜いて新たに作り込んだ設定の中でも、例の六つ子以外のキャラクター、イヤミ、チビ太、デカパンダヨーン、ハタ坊、等々が原作の原型のキャラをほとんど保ったままでまったく違和感なしに存在し、そして新たなストーリーや世界が成立しているというところであり、つくづく赤塚キャラの完成度の高さと魅力を思い知ったのだった(そして、それらが平成生まれの世代、それも十代そこいらの年代にもごく自然に受け入れられている!)。

もっとも、すでにご存じの通り、目下の『おそ松さん』人気の最大の理由は原作および第二作アニメ(1988年放映)の『おそ松くん』では影の薄くなってしまった本来の主役・おそ松以下の「六つ子」たちを、あえてそれぞれ細かくリアリティ溢れる等身大の共感が可能な青年たち、という性格付けをしたうえで全力で全面に押し出したことだが、私にはむしろあの六つ子たち、「おそ松」少年とそれ以外の兄弟たちにほとんどキャラクターの差違を付けようとしなかったところに作者・赤塚不二夫の発想の特異さ、的確さがあると思っている。彼ら六つ子の『おそ松くん』世界における唯一のアドバンテージというのはまさに(見分けの付かない)「六つ子」であること、それ自体のみであり、また、そうでなくてはならなかった。本来『おそ松くん』の設定というのは、その「六つ子」であること以外はごく普通の健全な少年たちが、平凡だがまっとうな両親の庇護の元で個性豊かな仲間やけったいな大人たちと渡り合いながら面白おかしい日常を繰り広げる、という極めて王道の昭和少年ギャグマンガだったからだ。もっとも、それらの中で特にイヤミチビ太がおそらく当初の作者の想定を超えた個性と牽引力をみるみる獲得し、作品世界そのものが先鋭化していくことで、世界の中心は彼らへと移り、六つ子たちはほどなく脇へと追いやられることになる。

それでも、彼ら六つ子があえて辛うじてその世界に留まっていられたのは、ひとえに彼らがあくまで作品世界において、主たる読者&視聴者層である子供たちが分身として自らを投影しうる、ごく普通の「子供」でありつづけたからだ。彼らはいわば否応なしに先鋭化、多様化していく『おそ松くん』作品世界と、当時の読者や視聴者である子供たちを繋ぐ唯一の紐帯としての役割を辛うじて保ち続けることで、やがてほとんど端役に追いやられるまでその役を全うしつづけたのだ。

つまり、昭和が終焉して四半世紀を過ぎ、赤塚不二夫がこの世を去って既に7年が経過した2015年において、あえて赤塚不二夫的世界を再生して平成の世代を引き込むためには、赤塚ギャグ作品の中では比較的まともな両親を揃って持ち、終始良くも悪くも等身大でリアルなごく普通の「子供」の役割を演じていた「おそ松」たち六つ子の登場が必然だったのだ。『天 才バカボンさん』や『もーれつア太郎さん』、まして『レッツラゴンさん』ではない理由は決してその設定や知名度、人気度のゆえのみではない。同じく強烈な父親とその友人やゲストたちに主役の座を奪われながらも、その異形異能の父親となんだかんだで行動をともにしながらごく脳天気にマイペースに生きている天然児バカボンや、まして初っ端からとうに父親に見切りを付けて自我と独自のキャラクターを確立し、時代や世間に関係なく逞しく自活しているア太郎やゴン少年では、現代の現実の世界で葛藤する平凡で無力なリアルの「子供」たち、もしくはそのなれの果てである「大人」たちからのモデルや等身大の共感、感情移入の対象にはなり得ないのだ。

ちなみに、かつて『おそ松くん』の原作や旧作アニメで六つ子を押しのけ、イヤミと並んで実質上の主役として八面六臂の活躍をしていたチビ太が『おそ松さん』では(今のところ)やや控えめな役回りに留まっているのも以上と同様の理由だろう。チビ太は本来のその強烈なバイタリティと生命力によって、当時の読者&視聴者である現実の 「子供」たちにとっても作者にとってもすでに理想的で突出した「子供」像を体現していたからこそ、現代の『おそ松さん』作品世界においても、本来のキャラクターを保ちつつも唯一健全な「大人」として進化することに成功し、しかしその代償にかつての主役の座を六つ子たちに譲ることになり、一歩引いて彼らを見守る側に回ったのだ。

目下、ごく上層の勝ち組やエリートを除けば今の日本の社会状況でまっとうな「大人」になるというのは困難かつ多大な犠牲をともなうもので、そして得るものがあまりに少ない。もう、それこそ赤塚不二夫の現役時代、『おそ松くん』原作の舞台である昭和の高度成長期もしくはアニメ第二作のバブル前夜の時代のように、「成長」が、「大人」になることがそのまま幸福や成功につながりうる、少なくともそうシンプルに信じて生きていける時代はとっくの昔に終わっている。大半の突出した個性や資質を持つわけではない平成の「子供」たちには、それこそブラックな労働環境下で底辺の歯車として使い潰される将来しか想像できないし、ましてそんな状況下でまともに恋愛し家庭など持ったら二度とその状況から逃れられなくなる。そして、それらはおそらくあの六つ子たちが、やがてあの『おそ松さん』世界に辛うじて残る松野家から自立し、旅だった先に待ち受けている将来である。だからこそ、彼らがあの世界であの古屋に留まり続け、イヤミやチビ太たちと意のままに戯れ続けるためには、たとえ兄弟そろって俗に言うニートのパラサイトに成り下がり、周囲から童貞と揶揄されクズ呼ばわりされようとも、決して現実社会でいうところの「大人」になるわけにはいかないのだ。

大人にはなりたくない。でも、だからといって何時までも「子供」のままでいてはさらに悲惨な末路になるのはさすがに想像が付く。そういう場合、どうすればいいか……一つには、世間や社会で言うところの「大人」や「子供」のレールやモデルから脱却、逸脱したアウトサイダーとなり、その「アウトサイダー」としてのアイデンティティや存在価値を認めてもらうしかない。現実的に言えば芸人や芸術家、作家などのたとえ天才とまでは言わずともある程度の独自の才能や個性に恵まれ発揮できる存在であり、究極的には、まさにイヤミを筆頭とする異形異才の赤塚キャラクターたちのそれなのだ。

言ってしまえば、彼らの創造主たる赤塚不二夫がまさにそうだった。おそらく当の赤塚自身がもっとも強烈に「大人になりたくない」人間であり、ゆえにその才能のみを武器とし「天才ギャグ漫画家」として一世を風靡することで、いわば「子供」の精神性を極力保ちつつもっとも理想的な形で社会での立場を獲得することに成功する。そして、次第に消耗し創作で行き詰まってくるとなるとともに自らをアル中の道化と化してまで、あくまでまっとうな、しかし凡庸な「大人」として社会に埋没させられることを断固として拒否しつづけながら寝たきりになりつつも最期まで生き抜いたのだ。そういう人が描いた『おそ松くん』原作において六つ子が次第に存在感を失っていったのはやはり必然であった。彼の世界では最も現実的で平凡な「子供」たちであった彼ら六つ子たちは、赤塚にとってはどう想像しても、リアルゆえに凡庸で無力な「大人」の将来像しか見出し得なかったからだ。

愛され養われるために個性を手に入れた「おそ松さん」たちの行方 – だれも知らない 愛され養われるために個性を手に入れた「おそ松さん」たちの行方 - だれも知らない このエントリーをはてなブックマークに追加

集団としての存在にすぎず、深い愛を以てまなざされるキャラクターではなかった(「松野家の6つ子」という集団でしかなかった)彼らが深い愛を与えられる存在となるべく獲得したのが「異なるイデア」すなわち他の兄弟からは抽出不可能な個性である。

ここから見えてくるのは「おそ松さん」たち6つ子は「赤塚先生が死んだ(箱庭が崩壊した)あとの世界で生き残る(愛され養われる)」ために個性を武器に戦わなければならないということ。

確かに、『おそ松くん』において長らく作者と読者の関心から去っていた六つ子たちは、『おそ松さん』において初めてそれぞれ代替不可能な個性を与えられ、おそらく赤塚マンガ史上類例を見ない熱狂的な(腐女子)人気を獲得し、揃ってかつて自分たちから主役の座を奪ったイヤミの家財一切を強奪したり、チビ太の屋台のおでんをほとんど無銭飲食しつづけたりするようなバイタリティまで発揮しているわけだが、しかし、それでもこの私には、それらの個性や「進化」がむしろ彼らのそろって、世界における平凡で非力な青年ぶり、現実の社会での「子供」たちの痛々しさ、いたたまれなさをより容赦なく浮かび上がらせる機能にしか感じられないのだ。お馬鹿、中二病、オタク、皮肉屋、天然、乙女系……等々の彼らの個性というのは、いずれも所詮は現実の日常の集団でそれぞれ一つは容易に見つけ出せる程度の、社会においてはごくありふれたもの、それも総じてネガティヴと見なされるようなそれでしかない。彼らはどう足掻いても、イヤミやチビ太などと同様の、社会の変化やヒエラルキーには左右されることのない、揺るぎなく不変の個性は持ち得ない。まして、そのキャラや役割そのものを自在に変化させながら世界を行き来するデカパン姿の天才や大口の怪人、そして大富豪のミスター・フラッグには決して成り得ないのだ。しかも、なまじ成長し分化して愛すべき個性や自我を得たのと引き替えに、かつての『おそ松くん』の頃には深刻な葛藤もなくほとんど一体で戯れていた彼らの間には、一部で激しい物議をかもした第五回に象徴されるような断絶、疎外がすでに生じてしまっている。私には、むしろたとえ作品世界や視聴者の視線の隅に追いやられていたきりだとしても、誰にも見分けの付かない未分化な一塊、無邪気な「六つ子」の少年の一群れでいたままの方が、彼ら自身にとってはよほど幸福だったのではないかと思えるのだ。しかし、もはや彼ら六つ子の時間は後戻りすることはない。彼らの「大人」への道程は確実に引かれ、進んでしまっている……。

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『おそ松さん』で繰り広げられる六つ子たちの一見陽気な馬鹿騒ぎに漂う憧憬と、そして表裏一体の危うさやあまりにも生々しい痛々しさを感じているのは、決して私だけではない。そして、あの六人の青年たちの存在そのもののリアルな脆さ、儚さのようなものが、そのまま彼らへの愛おしさ、そして萌えというものに少なからず繫がり、いま現在の(決して腐女子ばかりではない)多くの若い視聴者、「子供」たちの切実な共感や支持を集めてやまないのだ。

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