【おそ松さん】7話感想~トド松がトッティー!兄達の復讐劇&ダヨーンの本性が怖ぇよ!!※ネタバレあり – びーきゅうらいふ!
先日の『おそ松さん』第七回を観て、目下私はあまりの衝撃にいまだ打ちのめされてしまっているところだ。以前に(一部で)物議をかもした第五回のそれが、内容そのものはきわめて容赦ないながらもあくまで過剰なブラックギャグの範疇で受容することがまだ可能なのに対し、前半パートのトド松の災難、これまでで最も赤塚的世界から内実ともにかけ離れた舞台で繰り広げられるそれはあまりにリアルかつ辛辣で、生々しく救いのないものだったからだ。もはや、前回の記事で言及したような「失楽園」の予兆どころか彼らは既に遠く楽園から追放されているのだ、ということに、この期に及んで気がついたというわけだ。『おそ松さん』の世界というのはもはや単なる『おそ松くん』そして赤塚不二夫世界へのオマージュでもアレンジでもなく、明らかに身も蓋もなくこの現実の世界そのものなのだ。
このトド松の悲劇の本質は、彼があの六つ子の中では一番、というか唯一まともな社会適応スキルを持っているにも関わらず、他ならぬ彼自身が「六つ子」、それも「末弟」というアイデンティティに無意識に縛られているがゆえに諸悪の根源である彼らと決別できないどころか、結局は当の「兄」たちに従うしかない、というところだ。現実に毒家族に苦しめられている人たちから観たら、到底笑い飛ばすことのできないどころか心底胸を抉られるような話だと思う。彼も含めた兄弟たちというのは、それぞれベクトルは違えども「六つ子」という属性を内面化していて、それをまず自覚して捨て去ることから始めないかぎり自立も有り得ないのだが、目下、彼らはその切っ掛けすら掴めていない。とうに自分たちは『おそ松くん』世界からは放逐され、「六つ子」というのみではもはや存在できないことに薄々気付いているにも関わらず、だ。
「おかえり」一松とトド松の本当は怖いファミリーカーストゲーム・プレイ –
むしろ、なまじ成長してそれぞれ個性や自我に芽生えてしまったことで、ほんらい同日に生まれ同質の姿形を持つはずの彼らは、みずから長男とか末弟とか何番目とか名のりだし、互いに「兄さん」とか弟とか呼び合って序列化、差別化を行ってしまった。そして、この第七回や第五回などに見られたように、少しでも自分たちの暗黙の規範からはみ出したものは切り捨て、逃れようとしたものには徹底して制裁を加えたうえで再びヒエラルキーの最下部に束縛するのだ。皮肉にも、彼ら「六つ子」の関係性というのは、まさに彼らを目下疎外している社会の歪な縮図に他ならない。こうした光景は現実世界での閉鎖的なコミュニティでは言うまでもなくありふれているもので、件の第五回の誘拐騒動でカラ松に多大かつ過剰な同情が(一部で)湧き上がったのも、多くの視聴者にとってはまさに彼の受けた仕打ちを絵空事、他人事のギャグとしてとうてい看過できないほどのリアルな感触、痛み、トラウマを想起させてしまったからだ。
しかし、第五回に象徴されるカラ松の真の不幸というのは、彼が兄弟たちから受けた仕打ちそのものではなくて、むしろあれほどの仕打ちを受け、他ならぬ彼自身がその仕打ちを嘆いているにも関わらず、それでも兄弟たちの後を追わざるを得ない、というよりそのように思い込んでいる、というところにあると思う。彼は実は六つ子たちの中では「六つ子の次男」という属性とはまた別に、いわゆる中二病的な「イタイ」やり方とはいえ「松野カラ松」という一個人としてのキャラクターを自覚的にめげずに築こうとしている人間で、しかしそれ故に他の兄弟たちの本能的な反発を買ってしまい、目下一番酷い扱いを受けているわけだが、それでも兄弟たちを捨てられず離れることができない。一見いちばん要領が良いはずのトド松も然りである。まして、もっとも危機感を抱きながらも、その大元の兄弟たちとの共依存をいまいち自覚できていないチョロ松や、「恐怖」と表裏一体のイノセントな狂気に囚われている十四松とか、ご存じのとおり兄弟たちにあからさまに重篤に依存、執着している一松とか、そして何より「六つ子の長男」という以外のアイデンティティを持たない実は最も空虚なおそ松とか、皆それぞれが、赤塚不二夫という神から隔てられた世界で身を守るため、「六つ子」という生来のしがらみに自ら縋り付いて、辛うじて身を守っている。そして、彼らの抱いている恐怖や不安というものは、たとえ仮に彼らのうちの誰かが、あるいは皆が運良く就職できたとしても、ましてオサレなカフェでバイトして合コンに成功するぐらいでは、おそらく解消できるようなものではないだろう。
このように考えたうえで、あらためて第五回を振り返ってみると、かの『エスパーニャンコ』の一見ハートフルな展開も、また別の意味合いを持ってくるのだ。あのエピソードがよりによって例の『カラ松事変』と並置されていたのは、単なるギャップ狙いではなく彼ら「六つ子」の世界の危うい倒錯性をあからさまに暴くシビアな必然あってのものだった。世界にも他者にも元から断絶して引き籠もり、自分が何もしなくても自分を理解して守ってくれる同胞のみに守られ囲まれながら生き続けること(それも、あらかじめ唯一の「異端」を無視、疎外しておいたうえで!)……それって、本当に彼らにとって「幸せ」なことなの? 感動だけして終わってていいの?……それは、確かに、限りなく優しく、この上ない充足、安息に満たされているが、しかしこの上なく閉塞した、孤立した世界なのだ。
世界の一切のしがらみや視線から切り離され、ただ自分自身とその分身たちのみと戯れながら不変に生き続ける……それは、これ以上無いほどの退行であり、孤独であり、閉塞であるが、しかし、それゆえに損なわれることも脅かされることもなく完結した、不変の安寧に満ちており、きわめて甘美な、強烈な誘惑に満ちている。真面目な話、万一これに加えて、彼らがそれこそ腐女子の妄想通りに「性愛」すらも互いの間で交換し自給自足しあうようになったら、彼らの世界は完璧に充足し閉ざされ、彼らが外界へ向かう動機も意志もまったく失われてしまうだろう。現実の取り繕いようのないリアルな残酷さ、恐怖の中で、生身のリアルな醜さ、弱さ、脆さ、痛み、そして「六つ子」という名のスティグマを背負いつつ、ただ現在進行形でリアルに足掻く様をさらけ出している彼らの姿こそが、とりわけ腐女子の倒錯的な願望、欲望をより投影し、強烈に刺激し掻き立ててているのだ。それこそ彼らが、第一回で演じさせられていたような、完全なファンタジーの世界での完璧な理想の「アイドル」たちであったなら、むしろ彼女たちがこれほどまでに彼らに熱狂することは有り得なかっただろう。
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結局、彼らが真に救われるには、たとえば就職とか、俗に言う「リア充」とかいう表面的な属性なりステータスに拘る以前に、むしろそうした世間とも血縁ともまったく別のところで自分の価値なり肯定感なり絆なりを見出して築いていくことしかなくて、それは当然六つ子たちに限ったことではないのだが、とりわけ、目下の社会というのはそういった自分自身への肯定、自信というものを実感する、手に入れることが非常に困難なものになっている、と思う。それなりの不自由や犠牲には目を瞑って、漫然とでも一律のレールに乗り、規範に従っていればそれなりの生活も立場も自信も手に入る、というような状況ではないのだ。このまま今の場所にしがみついていられるわけでもないのは承知だが、かといってそこから抜け出すための具体的な手段も目標も心から信じることができない。努力しろとか成長しろとか言われても、その努力や成長の方向を自分たちの都合の良いように誘導し、駆り立て、自立とか自己責任とかいう題目の下で、抑圧や排除、搾取や支配を当然のように目論む輩は溢れていて、むしろそれがあるべき姿のように提示されていたりする。
では、「彼ら」にはやはり救済は訪れないのだろうか? もはや、今の現実に、世界に、真に目指すべき理想の「自立」のモデルというものは存在しないのだろうか? そう思いあぐねているところへ、実は、ふと当の『おそ松さん』のエンディング・テーマである『SIX SAME FACES ~今夜は最高!!!!!!』のリリックの中に、ひょっとしたらその可能性が含まれているのではないか……という一松、いや一抹の希望がふと見出せたような気がした。
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この曲の中で、それぞれ自分の個性をアピールしながらもあくまで「六つ子」であること、そして一体であることを強調する彼らに対し、その度に「誰が誰でもおんなじザンス!」とぶった切り、結局は見分けが付かない、一番キャラが立っている自分こそがやはり主役にふさわしい……と言いつつも彼らに付き添い、究極的には彼らの存在そのものを肯定している人物。『おそ松さん』世界においても未だに「おフランス帰り」と臆面も無くうそぶき、悪巧みを繰り返しては常に周囲からも社会からも呆れられ揶揄され攻撃され、時にはホームレスに転落しても懲りることなく、出っ歯という(世間的にはネガティヴな)属性さえもむしろ武器として率先して利用して、実はもっとも現実的にしたたかに単身でもって世界に立ち向かい生き抜いている、彼らの「先輩」であるイヤミこそが、彼らを救える可能性を持っている、というメッセージである……というのは穿ち過ぎだろうか?
つまり、元からあらゆる権威にも規範にも頓着せず、たとえ誕生から半世紀近くを経て創造主を喪ってもなお、次元も時空も超えて繰り返し甦り存在する赤塚キャラクターこそが、まさにあの「六つ子」たち、そしてこの現実世界のなかで立ちすくむリアルの「彼ら」を導き救いだすだけの力を秘めている、と思えるのだ。『おそ松さん』世界においても、そしてそれ以外のどのような世界であっても、デカパンはデカパン、ダヨーンはダヨーンであり続け、ミスター・フラッグと呼ばれるようになってもハタ坊は変わらず六つ子たちを慕い、チビ太は相変わらずの男気で好物のおでんを元手にこの世界を生き抜く。そして、そんな彼らは、やはりかつてとまったく同じように六つ子たちと交わり、見守り続けている。たとえ六つ子たちが「六つ子」であることをやめ、そしてそれぞれが外界に巣立ち、それぞれにさらに変わっていったとしても、彼らはまったく変わることなく、同じように彼らをそれぞれに迎え、関わり続けるだろう。やはり、あくまでも彼らが側にいる限り「六つ子」たちの世界は決して閉じることがない。むしろ、六つ子たちを守るために彼らはあえて『おそ松さん』の世界、そして2015年の現実世界に降り立ったのではないか……というのは、それこそ妄想に過ぎるだろうか。
それでも、たとえあの六つ子が、そして私たちが彼らのようには成り得ないとしても、彼らが現に、現在のこの世界でも十二分に通用するどころかまったく衰えをみせない活躍をしていることを目の当たりにするだけでも、やはりその種の救い、希望は持ちうる、と思うのだ。下手に自己の承認とか価値とか意味とかに葛藤することなく、とにかくただひたすら存在すること、生きることそのものへの意欲と意志にあふれた彼らの姿そのものを、この2015年現在に悩み苦しむ世界のすべての「六つ子」たちに示した、それだけでも赤塚不二夫の生んだキャラクターたちををあえていま現在に再生させた意義があるのだ。
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