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既に多くの方がご存じの通り、先日放映された件の(腐女子)人気アニメ『おそ松さん』16話の各エピソード、とりわけ「一松事変」において非常に衝撃的なストーリー、シチュエーションが展開された。
一松事変 (いちまつじへん)とは【ピクシブ百科事典】
「おそ松さん」16話で公式がついに禁断の扉を開ける Twitterでは大量の「遺影アイコン」が発生する事態に – ねとらぼ
『おそ松さん』においてそれぞれに「クズ」な六つ子の中でもとりわけ徹底的に拗らせまくった陰気な自虐キャラである四男・一松と、「遅れてきた中二病」こと単細胞なナルシストキャラの次男・カラ松との対立らしきものはストーリーの序盤(実質的な初回である第二話)からすでに端的に描写されていて、この二人の間で毎回のように様々に繰り広げられる軋轢(実態はもっぱら一松の方が一方的にカラ松を攻撃しているだけなのだが)はこの『おそ松さん』における一貫した重要なモチーフの一つであり、数多の(腐女子)ファンの多大な関心を引き立ててきた。そして、その軋轢の理由というのはおそらく偏に「一松のカラ松に対する嫉妬と軽蔑とが相半ばした近親憎悪」によるものであり、しかしカラ松の方はそのことにまったく気がついていないというところにある、ということもこの二人の大半の(腐女子)ファンが推測していた。
カラ松と一松はどこか似ている – お粗末さまでした
なぜ松野カラ松は松野一松との会話を避けるのか – お粗末さまでした
そして、この16話においてついに公式にその二人の関係への「解答」が、これらのファンの予想を遥かに上回る衝撃的かつ鮮烈な形で見事に提示されたのである。それはもちろん、表面上の「ホモ」ギャグにおいてではない。この「一松事変」において主役の一松はタイトル通り、傍から通りすがりに見れば些細な空回りギャグに過ぎない一連のトラブルの中で、しかし当人においてはおそらく人生有数の危機であり、それまで彼が文字通り死守してきたプライド、アイデンティティの崩壊寸前まで追い込まれるのだが、他ならぬ彼が一貫してあからさまに反発と嫌悪を示してきたはずの相手であるカラ松によってあっけなく救われる。そして、それは同時にカラ松の側にとっても実は(おそらく本人は自覚していないが)これまでの人生を揺るがしかねないほどのコペルニクス的展開と再生をもたらしたのだ。
この16話の「事変」において、一松はカラ松が熟睡している隙に彼の愛読しているファッション誌を手に取ろうとしたばかりでなく、彼が普段愛用している服(ご存じの通り、他の兄弟にはトド松を筆頭に「イタい」と揶揄と失笑の種である)をそのまま身に付けてしまう。そこへ不意に六つ子の長男にしてリーダーであるおそ松が入ってきたところで激しく動揺し、正体がバレないように必死でカラ松のふりを続ける。この時点ですぐさま一松が「本当はカラ松と同様の嗜好の持ち主である」「しかし、他の兄弟、ましてカラ松本人にはそれを絶対に知られたくない」ことが、(まさに視聴者が予想していたとおりに)明解になる。そして、傍目には笑いどころでしかない親友(猫)との誤解などの果てにどうにかおそ松を追い出せそうなところまで漕ぎ着けたとたん、間の悪く目覚めたカラ松によってすべてを目撃されてしまう。しかし、その直後にカラ松が驚愕しつつも取った行動は、およそこれまでの彼のキャラクターそして一松との長年?の因縁からしてみれば、視聴者にとっても予測を少なからず超えるものだった。
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そもそも、この松野カラ松という人物は独特のセンスと美学による「クールなカッコイイ」キャラを常に演じたがっているが、実際は傍目にも兄弟たちにとっても「イタい」言動を繰り広げ空気が読めず、碌に会話も成立せずに持て余されている存在でしかなく、その当人と周囲の認識とのズレによって常に必然的に災難や不遇に見舞われ、それが定番のギャグとして機能しているという役回りである。彼はひたすら自己完結した世界の中に生きており、しかしそれは本当の自分、実は小心で不器用な己の本性から目を背けるための手段でもあった。そして、その彼の内実が本人にも視聴者にもあからさまに示されるのが、第5話のエピソード「カラ松事変」である。
カラ松事変 (からまつじへんとえすぱーにゃんこがじかいのおそまつさんだよー)とは【ピクシブ百科事典】
誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話 –
この「事変」において、チビ太が起こした誘拐騒動に巻き込まれた彼は兄弟全員から完膚なきまでに見捨てられ、その上、続く「エスパーニャンコ」のエピソードでは丸々兄弟たちに独り忘れ去られたまま終わるというとことん容赦なく悲惨な扱いを受け、カラ松本人、そして全国の彼のファン(私も含む)に甚大な衝撃とトラウマを植え付けることになる。しかも、この二つのエピソードにおいて彼と対照的な結末を得るのが他ならぬ、普段カラ松を「目の敵」にしている一松なのである。一松はカラ松の誘拐の報を聞くや案の定舞い踊って喜び、目の前でチビ太に火炙りにされているカラ松に向かってもっともシャレにならない凶器(石臼)を投げつける。しかしその上で、続く「エスパーニャンコ」において図らずも自分が秘めてきた「本音」を兄弟たちに知られてしまう事態に見舞われるが、兄弟はそろって彼を気遣い優しく受け入れるのである。
ともに、それぞれおのれを偽り虚勢を張り本当の弱い自分を隠しているという点では同類であったのに、かたや一顧だにされずなかば放擲され、かたや許され守られる。そのあまりに不条理な明暗がなおさらカラ松の悲惨さを強調するのだが、カラ松本人は一松の本当の姿をいまだ知らないまま、一方でおのれのありのままの気持ち、自分の弱さに否応なしに直面する羽目になる。彼はチビ太の前で「俺は梨に負けた」「俺も(皆と)梨が食べたかった」と独り号泣し、そろって遠ざかる兄弟たちの後ろ姿に向かって満身創痍の姿で泣き叫ぶのだ。「扱いが全然違ーう!」
「おそ松さん」のどこがしんどいのか、自分なりに考えていたという話 – バックヤード
さて、問題の六つ子達なんですが、たぶん彼らは「見られ」足りてないんだと思います。少なくとも、自らの求める見られ方をされているという認識がない。ちょっと個人差がありそうですけど。
そりゃあそうだと思います。子が6人いても親は2人です。普通に無理です。6等分以上のことは求められません。
周囲からは「六つ子」という集合体で見られていました。おそらくそれは、個人が求めている見られ方とは違います。
成長にしたがってその集合体としての見られ方では足りなくなった分をもらうために、それぞれに「俺を見てくれよアピール」をあの手この手でするわけです。
まさにカラ松は、この六つ子たちの中でも最も「見られない」という苦痛に苛まれる存在である。とくに件の5話の「事変」以降、彼の「見られたい」という願望はさらに加速してしまったように見える。彼はその後も相変わらずナルシストキャラによるアピールを止めず、しかし一方では「どうしたら皆に見てもらえるのか、ちゃんと応えてもらえるのか」と彼なりに思案したうえでさまざまに言動も工夫し周囲にも配慮し相手も気遣うようにはなっていくのだが、一向に彼の求める反応は得られないどころか常に無視、黙殺か理不尽なまでの仕打ちである(もちろん、彼の努力の方向性が根本的にズレているからなのだが)。むろんその一連そのものが作品内ではギャグとして成立し視聴者には受け入れられているのだが、正直なところ、私のような未だに自他ともに認めざるを得ないようなKYとかコミュ障とか呼ばれる人種にとっては、彼の愚かしくも痛々しい足掻きの数々はいたたまれないどころか文字通り身を切られる、片っ端から古傷を抉り出されて目前に突き出されるような描写である。
そして、そんな彼の体たらくを率先して揶揄し攻撃を欠かさないのがやはり一松である。彼はカラ松を常に監視しその言動を封じる。まるでそれがおのれの使命であるかのごとくに。一方、カラ松のほうはそんな一松の行動にはなぜかほとんど受け答えを見せないのである。目の前で愛用のサングラスを猫のおもちゃにされ壊されてもいぶかしげに戸惑うだけの彼の姿を見て、一部の視聴者の間では「カラ松にだけは一松の姿が見えていないのでは?」とかいうネタが呟かれるほどであり、そしてこのような状態が2クールに突入しても続いたまま、ついに15話でカラ松に決定的な破綻が訪れる。
そして、誰が松野カラ松を殺したか | 裏庭4.0
おめでとう!カラ松は本物のナルシストになった!(または15話の因果応報説を悉く否定する考察) – 真冬
15話「チビ太の花の命」において、チビ太と勿忘草の花の精との(芸術と愛をめぐる)美しくも残酷な物語の裏で、カラ松と醜悪な姿の「フラワー」との悲喜劇が進行する。カラ松の満たされない「どうか俺を見てくれ、俺に応えてくれ」という願望は、ついに「側にいてくれなきゃ死ぬ、言うことを聞かないと死ぬ」と絶えず喚き立てる承認欲求の権化を生んでしまった。そして彼は初めて兄弟の総意に逆らい今度はみずから彼らから離反する。一向に自分に思うように見てくれない、応えてくれない兄弟よりも内実はどうあれ真っ向から彼を見てくれ応えてくれる「フラワー」を選んでしまったのだ。終いには文字通り人を喰らう怪物と化したそれに、兄弟はおろか誰もいない式場で放心して寄り添う彼の姿はまさに5話の「事変」の変奏ともいえる。彼はふたたび言うなれば周囲の他者を、そして自分を上手く「見る」ことができなかった報いを受けてしまったのである。
Tommy
そして、この16話の「事変」の冒頭から、彼はずっと兄弟兼用の部屋の端に置かれたソファでほとんど身じろぎもせず眠り込んだままだ。その身はきっちりとブランケットに包まれ、顔も(視聴者から)背けたきりで表情は全く伺えない。普段は「出オチ」役であるところの彼としてはこれまでにない異様な登場の仕方と言っていい。定番であるはずの彼の「パーフェクトファッション」はそろって床に無造作に脱ぎ捨てられている。まるで彼自身の抜け殻のように。実際、彼は前回において、件の「フラワー」に完全に精神を食い尽くされ生気を抜かれていた。そして、その後に続いて彼はまさに「亡骸」として視聴者の前に現れたのだ。……そして、終盤にようやく彼は起き上がり、ようやく出会いを果たすのだ。望んで自分と同じ姿をしている弟に。今までずっと、彼を「見つめ」続けてきた男に。
自分が長いこと追い求めては得られず繰り返し黙殺され裏切られ続け、それでも性懲りも無く諦めずに挑み続けてはやはり報われず、ついには自ら生み出した怪物に取り憑かれ一時は精神の破滅にまで追い込まれた男がとうとう、再び目覚めて姿を現したその瞬間、おのれの眼前にその渇望してきた存在、自身の随一の理解者、おのれの分身ともいえる存在を見出したのだ。それも、想像だにしないもっとも卑近なところで。実にあっけなく、滑稽としかいいようがない形で。……しかし、だからこそ、この上なく感動的に。
ここに至って、彼はようやく「松野一松」という存在を発見したのだ。振り返って見れば、何やかんや言いながら常に自分の傍らで寝起きし、居酒屋でも屋台でも銭湯でもしばしば彼の隣に座っていた弟。ともに居るとき、その真意はどうあれ自分の言葉に耳を傾けて、やり方はどうあれ彼の存在にたびたび明確な意志でもって応えてきた相手。そして、互いに気付かず自覚もしないまま、しかし他には決して感知できない領域で互いの本質を見抜きあっていた相手。それはもう、互いになんらの欺瞞の余地もないほどの形で現れた。彼がおのれの幻影の中でのみ追い求めていた「カラ松ガールズ」という名の理解者が、ずっと自分を忌避していたはずの実の弟の姿を取って顕現したのだ。カラ松がとっさにその一松に成り変わったことで彼を結果的に守ったのは必然の行為であった。これは彼にとっては奇跡的な重大事であって、そのようやく巡り会った唯一の存在には何をおいても真っ先に自らの言葉で手で、意思で問いかけ確かめる必要があり、そこには他の人間、たとえ兄弟ですら関知する、関知させる余地も有り得ないからだ。この一見ささいな、しかし運命といえるまでの互いの繋がりの確信、感動こそがまさに腐女子を掻き立てる本質であり、それに比べればオチのあからさまな「ホモ」ギャグなどはほんのおまけ程度のものでしかない。
Voodoo Lounge (Reis)
今後の『おそ松さん』の展開においては、一見ではおそらく二人の関係およびキャラそのものにはそれほどの進展も進歩もないだろう、と思われる。カラ松は相変わらず皆にスルーされ不憫な目に遭いながらもナルシストを演じ続け、一松はそんな彼に相変わらず毒を吐き続けることだろう。しかし、それでも、当人たちの自覚のほどはどうあれ、彼らの内面には確実に革命的な変化と覚醒をもたらし、そしてそれはやがて少なからず彼ら六つ子たちの世界に変容をうながしていくだろう。そして二人を一貫して見守っていた数多の視聴者は間違いなくその瞬間を目の当たりにし、心に焼き付け、そして確信した。そしてそれこそがまさにこのエピソードを「事変」と呼ぶに値する衝撃であり、本質なのである。
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