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(更新:2023年9月9日)

【感想・批評】『おそ松さん』最終回によせて —八十年の孤独と殉教者たちへの慟哭—

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※最終回のネタバレを含みます。

ややネガティヴな見解です。

昨年秋に赤塚不二夫生誕80年記念企画としてこのアニメ『おそ松さん』が放映開始されていらい、私は実にこの半年あまりの間、実に多大な時間と感情と思考と妄想を『おそ松さん』という作品そして六つ子たちへの思いに費やしてきた。冗談抜きで仕事にも生活にも支障をきたすレベルにおいてである。そのような状態で毎回視聴するたびに彼らそれぞれと喜怒哀楽を共有し、その愚痴やツッコミに共感し、その嘆き悲しみ痛み苦しみをそのまま我が事と為し心痛に浸り悶絶し、その苦悩と煩悶と渇望をおのれのそれにそっくり重ね合わせて過ごしてきた。このような事態は学生時代においてすらなかったことだ(その割にはあまり大した文章も作品も作れていないが、これはいつものことだ)。そして、『おそ松さん』ファンの諸兄諸姉の示唆に富む考察や感想記事などを拝読して目を開かれ感慨を深めつつ彼らの生き様に想いを馳せ、彼らにとってもこの私にとっても納得できる形での幸福と救済と成長を切に願いつつ、ついにこのたび最終回を迎えたわけである。

私なども含めて多くのファンが、おそらく彼ら六つ子は何らかの形でそのモラトリアムな日々に終止符を打ち、それぞれ実社会に出てそれなりに自立し成長していくか、何やかんやで(大人の都合で)脳天気に怠惰な日常に回帰してそのまま面白おかしく過ごしていくのだろうと予想していた。しかし、この『おそ松さん』の制作陣はいずれの想定も汲んだうえで、終盤にかけていずれの可能性も周到かつ巧みにほのめかして見せながら、そのいずれもこの最終回の冒頭から完全にひっくり返し逆張りを繰り出したうえで、しかもこれまでに積み上げてきたテーマやモチーフらしきものをすべてことごとく無に帰して笑い飛ばす、という暴挙に及んだ。いや、ギャグアニメとしてはむしろ正道の発想であり手法ではあるだろう。放映後の感想などを見た限りでもその手腕はかなり見事であり、今のところは総じて成功していたといえる。

この25話では冒頭からラストに至るまで実に息をつく間もなく、ここに至るまでの前24話のあらゆる文脈もテーマも比喩も象徴も余韻もすべて拾い尽くした上でその全てを完膚なきまでに叩き潰し、そして、それによって構築され分析されてきたはずのこちらの考察や批評などというものを片っ端から嘲笑し皮肉り蹂躙するような展開を見せつける。そして一切合切を灰の一粒も残さずに焼き尽くし吹き飛ばし、そして辛うじて意味あるものとして遺されたのは(らしきもの)と(欲)のみであり、しかし当人たちは皆それすらもすべて目の前で為す術もなく喪い、最後まで自らの手に入れ満たされることは叶わなかったのである。

たしかに、そもそも成長とか自立とかいってもそれを満たす定義はなんなのか、ということで、それは果たして親や社会の望むような就職をして一人暮らしをすることなのか、世間や周囲から見て好ましくない嗜好や未熟とされる趣味、振る舞いを捨てることなのか、相応しい異性を獲得して童貞とか処女を「卒業」し、いずれその相手を養ったり連れ添ったりして、ゆくゆくは子供を生み育てることなのか……それらは確かに一般に「大人」として認められ生活していくためには必要もしくは重要な条件のひとつではあるのだろうが、しかし、それらに対して制作陣は真っ向から「否」を叩き付け、視聴者を道連れにまったくはるか逆のベクトルに暴力的なまでに引きずり込む。それは確かにおそ松が言うとおりに規定の「就職」や「自立」よりもはるかに苛酷な道であるどころか、その果てには自分たち以外には理解して寄り添う相手も認めてくれる人間も皆ことごとく滅し、まして愛し支える伴侶たちも存在し得ない壮絶な孤独であり破滅への道行き以外の何ものでもなかったのだ。

前回の24話「手紙」において、いったんは彼ら六つ子が順当に「成長」し実社会に適応しうる可能性を明示しておきながら、最終回冒頭でいともあっけなく容赦なくその道を断ち切ってしまう。謎の「選抜」大会に文字通り一家まとめて選ばれた彼らは一片の迷いもなく嬉々として参加することになる。彼らはほどなくあっさり両親と離別し結局は長年の仲間たちや協力者、そしてこれまでに出会い交流した(ゲスト)キャラクターたちとともに試合を勝ち進んでいくのだが、決勝相手の異星人チームにはまったく歯が立たず、それまでの物語の中で培ってきたさまざまな愛と友情、絆の犠牲のもとに、溜め込んだ性欲(それはまさに本能そのものであり「生」の根源だ)の全てを賭けてようやく団結して立ち向かうのだが、結局は敗れ去り、おのれの骸のみを遺して未知の宇宙の果てに放擲される。

サタニック・マジェスティーズ

しかし、本来の意味で世界と対峙し「生」をまっとうするとは実はこういうことなのかもしれない。いちどおのれの個性なり自我に目覚めてしまい、それを捨てることができない者捨てることを諦めてしまった者は、それが天命であるかのごとくに別次元のグラウンドに引き出されて不条理なルールの下で次々と対戦を余儀なくされる。そこでは通り一遍の「社会の厳しさ」「世間の冷たさ」どころではない、半端な努力や自制、自立心では到底太刀打ちできない、相互理解すら不可能な異形異物や非情な暴力が跋扈し、善人も俗物も石油王も優しい少女たちも聖人も煩悩まみれの中年男もことごとく一緒くたにしてあっさり殺戮される場所である。彼ら彼女らは既成のシステムや価値観からの保証も両親の期待も振り捨てて、おのれの個性と自我以外は持たずに生身ひとつで本能と情動だけを武器に立ち向かわなければならない。その中で曲がりになりにも共に過ごし互いに信頼を築き、わずかの間でも愛情を交わし合った人々の献身すらも顧みず、その死に様すらも笑い飛ばし糧のひとつにして、あらゆる犠牲を払っても最後まで勝ち抜ける望みは殆どなく、そして力尽きたら最後、費やした時間も努力も苦悩も全てが無に帰して、ただそれまでに通り過ぎた「愛」の記憶のみが遺り、しかしそれすらもおのれの死とともに完全に消え去るのだ。もはや、絶望とか孤独とかいう言葉すら生ぬるいほどの圧倒的な虚無そのものである。

こう書いてみると、この制作陣の残酷さもしくは絶望というのはやはり底知れず恐ろしいものがある。しかし、これらはまさにこの『おそ松さん』世界の生みの親である赤塚不二夫の生きた世界でありその一生、生き様そのものだったのだ。そして、かりにもその赤塚の申し子である六つ子たちにたいして、赤塚もしくはその精神を受け継いだ『おそ松さん』制作陣はあらためて「選抜」を行うことで、彼らに対して決して抗うことのできない宿命を自覚させ強いたのだ。「お前たちの行く道はこちらだ」。時代がたとえどのようであろうと、社会に世間に常識に安易に従うな、それらのすべてを拒絶し抗い、親兄弟はもちろん半端な愛や恋や夢や良心など信じるな、むしろおのれの死や堕落ともろともに笑い飛ばせ、いくら底辺のクズニートと罵られ虐げられ黙殺され嗤われても、おのれの個性と欲望と本能だけを信じて忠実に生きろ……まさに彼らは真の「神による地獄」に導かれ、そしてその天命に忠実に身を捧げ、文字通り安住の地を遠く離たれて「世界の果て」に殉じたのだ。

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「いや、たぶん高確率で2期か劇場版の制作がありうるじゃないか、どうせその時にはみんな、また何ごともなく元の日常に戻っているよ」とも考えられるが、たとえそれがめでたく実現したとしても、もうこの時点で彼らが決して私たちの生きる「こちらの世界」の生身の人間の代表ではなく、あくまでも赤塚世界の意志と遺伝子を受け継ぐキャラクターであり、その使徒として存在することが決定されている以上、もう私たちにはいくら彼らに共感しても決して彼らを救い救われる対象にはできないし成り得ない、ということなのだ。彼らがささやかな愛や性の充足から隔てられたまま死と破滅を永劫に繰り返しつつ生きる世界と「こちらの世界」は遠く隔たれていて、私たちはもう彼らには手を差し伸べることができないし「こちらの世界」で出会い語り合うことはできない。私たちの「愛」は彼らには届くことはなく、すれ違って梨を贈ったりラーメンの一杯も奢ってやることは絶対にできない、まして古びたアパートを訪ねてカレーを作ってあげることもできないし、その逆も然りなのだ。

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私などは少し前まで、この現代にあえて『おそ松くん』という赤塚不二夫の代表作を復活させ再構築し、本来の主人公であり本来の読者たちの分身であった六つ子たちを現代の若者や大人たちが共感しやすい個性を与えて再生させ、赤塚世界の価値観やバイタリティを周知させることで、いまだ閉塞しつづける社会の中で悩み傷つきながら生きる若者や大人たちに新たな視野を与えて、この現実を生きる力や精神を持つ切っ掛けになるだろう、という希望を抱き求めていた。そして実際に『おそ松さん』は社会現象と見なされるほどの大ヒットとなり、六つ子たちにはそれぞれ多くのファンが生じ夢中になり、少なからぬ数の人間がその幸福と成長を願った。しかし、真の赤塚世界の精神というのは決してそんな甘いものではなかった。「これでいいのだ」もセラヴィ!も一生全力モラトリアムを貫くのも、ましてありのままにおのれを通し生き続けるというのは、文字通り命がけの行為であり破滅と狂気に堕ちるかすべてを失い文字通り丸裸になって独り野垂れ死ぬこと覚悟前提でやらねばならぬことなのだ。もっとも、赤塚不二夫の後半生とその死の有り様を少しなりとも知っている人であれば、そんなことは元から分かりきっていたことなのだろうが。

「おそ松さん」21話B しんどい私はクズとして生きられるかという話 – バックヤード 「おそ松さん」21話B しんどい私はクズとして生きられるかという話 - バックヤード このエントリーをはてなブックマークに追加
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しかし、それでも私などは彼ら六つ子には、現在の生の現実を「平凡な大人」として生き抜いていかなければならない等身大の生身の青年としての像を見出して共感し投影していた。これは大部分の『おそ松さん』ファンの姿勢であり、そしてこのアニメの空前の人気の最大の要因であったと確信している。私も含めたこれらのファンにとって、彼らとは二次元上でギャグを演じるための記号ではなく、まさに私たちと同じ血と肉と心を持った自分の兄弟であり息子でありかけがえのない友人であり、なによりもおのれの分身であった。この期に及んで正直に言わせてもらえば、彼らには赤塚ワールドの摂理に永遠に殉じ続ける聖戦士ではなく、こちらの現実社会と地続きに存在して、その(底辺の)歯車として否応なしに変化し年老いて行かざるを得ない、無力で凡庸な私たちの同志であって欲しかった。それこそ大半のこの社会に生きる人間というのはむしろ多かれ少なかれ「実松さん」もしくは「じょし松さん」であり、24話の彼らがそれぞれ挑んでいたようにささやかな地位や承認を得るためにでも日々必死に足掻き耐えているのだ。それは彼らの生きる運命に比べればはるかに生ぬるい世界ではあるが、そんな平坦な生殺しのしがらみや閉塞の中でなし崩しに摩耗して朽ちていくにまかせるしかない、それ以外に生存していく術を持たず選ぶこともできない私たちとともに肩を寄せ合い愚痴を語り合い慰め合う仲間であり身内であって欲しかったのだ。

それが甘い望みだとしても、私としては彼らにはあのような苛酷な試練を、生を背負わせ続けたくないと考えてしまう。彼らがあのままであの世界に存在し続けることは、いずれ彼らに執着し追い続ける私たちファンも屍体の山の側でパーティに興じたり得体の知れない肉をそれと気付かずに食べてしまう客の一人として巻き込まれ続けるしかなくなってしまうような気がする。もっとも、こんな事をうだうだ考えているのは私ぐらいのもので、大抵の視聴者からは「元々からそういうアニメだったろう。そんなことは最初から心得たうえで見てたんじゃかなかったの? よりによってこの話に今さら何を期待して求めてたわけ?」とか呆れられるのがオチではある。この私がただただ甘ちゃんで愚かな見当違いをしていただけに尽きる話だ。

それでも私としては率直なところ、この制作陣に対しては「バカヤロウこれまでに私が費やした半年の貴重な時間と金と流した血と涙をそっくり全部返してくれ!!」と叫んでやりたいところなのだ。何かや誰かを「理解すること」と「受け入れること」そして「愛すること」とはしばしば一致し得ないもので、それはまさにこの『おそ松さん』におけるテーマのひとつでもあったのだから。

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蛇のごとく粘着だが、羊のごとく惰弱。

2件のコメント

  1. この記事に共感出来すぎて辛いです…
    最後の最後で「人間」だと思っていた彼らが「記号」というか「製作陣の傀儡」と化したのが心底がっかりしたんです自分は…

    1. ありがとうございます。私が観た限りではあの最終回には肯定的な評価や感想が多かったので、このような意見は稀少だと思っていたのですが、共感いただけて大変光栄です。
      上手くまとめきれずに長々と書いてしまいましたが、結局私が言いたかったことは名無しさんのコメントに尽きます。キャラクターよりも制作陣の主張やエゴの方が先行してしまったように感じた、というのが大きいです。
      ギャグアニメとして割り切ってみていた(それが通常の観賞のあり方でしょうが)視聴者にとっては問題はなかったのでしょうが、実際には彼らのキャラクターそのものに大いに感情移入して見ているファンが多くを占めており、グッズやイベントの展開方法からしてまさにそうした層を煽っているにも関わらず、そうした流れと制作陣のスタンスのズレが端的に現れているかなと。
      思い返せば、この辺りのズレはすでに以前から、具体的には第5話あたりから生じていたように見えます。『ガラスの仮面』の「国一番の花嫁」のエピソードの逆パターンと思いました。

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