H.I.Sの「東大美女が隣に座ってフライト」企画中止 ネットで批判受け – ITmedia ニュース
この一件に関する批判はすでに散々言い尽くされているが、たとえそれらに対してこの企画の賛同者や擁護者がいくらどのような理屈をこねて弁護や反論を述べたところで、かくなる企画の奥には「学生」という社会的そして性的に「無垢」な存在である(とされている)女子こそをあえて商品化そして体裁良く消費したいという、ある種の層からの魂胆が透けて見えてしまうのである。
実際問題として、応募者がみな「旅行の合間にどうせなら娘の夏休みの宿題でも手伝ってもらおうかな。ついでに進路の相談にも乗ってもらえるだろうし、子供たちが彼女たちから刺激を受けて勉強にもやる気を出してくれればいいな」……というような穏当で健全な目的ばかりとは限らないのだ。むしろ「女子大生」それも「東大」という身分属性にこそある種の優越感や劣情を抱いてくる輩が少なからず現れてくるだろうことは想像に難くないし、そういう「不純」な目的を隠し持った当選者による万一のトラブルに対する予防策なり対策なりを企業側は果たしてきちんと用意していたのだろうか?
これを「アイドルのバスツアーと同じようなものなんだから目くじら立てるな」「本人たちが望んでやっているんだからいいだろう」とかいう手合いも案の定山ほど出ているが、アイドルはあくまで「そういう目的」のためのプロフェッショナルとしてある程度納得した上で志望しそのための訓練なり心構えをある程度身に付けており、主催側も「そういう目的」元からあからさまに提示したうえで客層もあらかじめ選定したうえで企画を実行し、そして「そういう目的」の客に対するトラブルや現場のアイドルたちの保護などのノウハウもそれなりに確立されているのである。もちろん彼女たちに対しては「プロ」としての相応の対価や報酬が用意されていることだろう。
だいたい、観光先の歴史や建築などの知識を聞きたいならそれこそプロのコンダクターやその分野の専門家の方がよほど手慣れていて有用だろうし、お笑いについて熱く語って欲しいならそれこそ芸人の卵の方がいいだろう。逆に「そういう目的」のためなら最初から潔く割り切って駆け出しのアイドルやタレントとかそれこそ「プロ」のコンパニオンとかを利用するなりしておけば、まだしもそれほどの文句は出てこなかったと思うのだ。しょせん企画側がたとえいくら表向きに理論武装して糊塗したところで、件の企画で彼女たちに求められていた真の商品性というのは「東大生」そして「美女」という記号であり属性でしかなかったのだ。
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しかし、それこそそこいらの女子の何倍もの努力を重ね刻苦勉励したうえで東大という日本の最高学府への入学を果たしたとしても「女子」でありそれも美貌である以上、総じて世間から求められるのがまず何を置いても「旅行の移動時間の暇つぶしに隣に座って楽しくお喋りしてくれること」であって、むしろ「東大生」という肩書きはその内実をソフィスティケートし箔付けするものでしかない、というのはなんとも釈然としないものがある。もっとも才色兼備はむしろ同性の憧れであるし、勉学や研究に励む一方で女子としての装いや楽しみを忘れずに上手く両立させながら、学生生活を目いっぱい謳歌する先輩や同輩たちの存在というのは後続の女子たちにとっては大いに魅力的で励みになるだろうし、件の『東大美女図鑑』の学生たちの目的も本来そこにあるはずだ。だからこそ、事情や目論見はどうあれこのような企画を引き受けてしまったのは悪手であり、さらに言わせてもらえば東大生にあるまじき思慮とプライドに欠けた行為であったと感じざるを得ない。こんな低俗な小遣い稼ぎなんぞはそれこそ早慶やMARCHあたりの私大のスノッブ連中にでも任せておけば良かったのだ(`・ω・´)。
東大美女図鑑
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もっとも、少し前に問題になったHKB48の楽曲などからしても、その根本をたどれば例の企画そして『東大美女図鑑』のコンセプトと同様の土壌から生じたものと言えるだろう。例の歌詞のような発想を生んだのは秋元康という一個人の価値観のみに留まるものではなく、目下の社会全体から女子という生き物に対して陰に陽に求められる欲求であり規範なのだ。「どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない」とのたまう同級生やスカートをひらひらさせながらメイクや恋にうつつを抜かす友人たち、そしてそれを良しとする世界に身を置きながら、それでもひとり密かにアインシュタインの業績に敬意や憧れを抱きつつおのれの情熱と向上心を保ち続けるというのは相応の信念と精神力を要するはずだ。むろんこの手の世間のプレッシャーや周囲の空気とおのれの希望との齟齬による葛藤というのは男子にとっても少なからず存在するだろうが、女子はさらにそうした苦痛や軋轢をより強烈かつ敏感に受け続けていて、かつその中で自分を制御し、あるいは妥協し演じつづけながら「賢く」ふるまい世間を遊泳しつづけなければならず、そうした状況は彼女たちが学生生活を修了し社会の成員となり、やがて世間から「女子」とは見做されなくなったとしてもなお続いていくのだ。
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とは言え、この期に及んで「人間は外見より中身が大事!」などという綺麗事をさすがに世間に向けて大っぴらに主張する気はない。「可愛いは正義」とまでは言わないまでも、なんだかんだで人はみな美男美女には憧れるものだし、もちろん自分もなれるものなら美形になりたいし、実際に同じ機能や中身だったらより新しく、装幀やデザインの良いものを選ぶものだろう。たしかに若さには間違いなく貴重な価値があり、容貌や肉体の美しさも大きな才能の一つとして尊重されるべきではある。せっかくの天賦の才能、世間的にも使えるカードは大いに活用しておくに越したことはないだろう。
しかし、それでも女性という属性に生まれてしまった人間に対しては、容貌の美しさや若さという天賦のもの、自分自身の努力や心がけのみでは改善も向上も難しい要素によって価値を決めつけられ人生を左右されてしまう、ということがあまりに多すぎるのだ。そういう現実を女性に生まれついてしまった人間というのは物心ついたころから痛いほど思い知らされていて、その現実に対してはたとえ「東大」という日本社会における最強レベルのカードを持ってしても抗いがたいものなのだ。彼女たち『東大美女図鑑』なるものの存在そのものこそが、まさにそのような現実の象徴のひとつといえる。世の女性はみな、いくら自身の努力や犠牲でもって地位や財力、名声を手に入れ知性や教養、技能や経験を身に付けたところで、世間ではそれらの長年積み上げてきた自身の努力の結晶と誇りすべてを「でもダサいよね」「でもブスだよね」「でもババアだよね」などの一言二言であっさりと塵芥のように流され無きものとされ否定されてしまう、その絶望や恐怖と常に隣り合わせにいるのだ。正直、才能や努力の以前にまずモチベーションそのものを大いに削がれてしまう状況が抜きがたくある。
むろん外見や年齢のみで自身の価値を一方的に判断され差別される悔しさや恐怖というのは男性も相応に経験しているはずなのだが、それでも男性は代わりに地位や財力や経験など自身の努力でそれなりにカバーできる余地や可能性がまだしも存在している。包装が多少冴えなかったり古びていたりしても、それでも中身さえ優れているとみれば世間には買い求めてくれる人は多いのだ。しかし、女性というのはむしろ包装紙こそに唯一最大の商品価値が求められている状態であって、中身の方が包装紙を引き立てる装飾という位置づけなのである。
しかし、それらの現実を踏まえたうえで、あえて女性史をわずかなりとも紐解けば、さまざまな学者や文学者、それこそ歴史ある大学や高校の設立者などの女性の先人たちが、当時の大半の女性たちにとって学歴や教養というものがたとえば「エリート男性に嫁入りするための箔付け」や「家庭や社会で(男性を)影ながら補佐するためのもの」でしかない現状を憂い、それぞれの分野でどれだけの苦労や犠牲を重ねて社会を、そして女性たちの意識を変えようとしてきたかが見て取れるのだが、少なくとも日本社会では21世紀に入ってもいまだこうした女性にとっての現状というのは大して進歩していないわけで、件の企画というのはまさにそうした現実を図らずも端的に象徴する事例だったといえるだろう。それでも、そういう現状を打破しわずかなりとも前進させるのはやはりあまねくこの世に生きる「女子」たち、それも他ならぬ東大出身者を筆頭とする知性と見識を備えた彼女たちの力に掛かっているはずだ。
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