「オウム真理教事件」の死刑囚たち、麻原彰晃こと松本智津夫を筆頭とする元オウム真理教幹部らの死刑執行が先日ついに行われた。当然ながらメディアでは大々的に取り上げられたし、とりわけ私なども含めた昭和生まれの人間たちにとっては、それぞれ程度や内実は違えども複雑な衝撃があったものと思う。
この執行の時期や進行方法、そして死刑そのものに対する是非についてはさまざまな意見があり、やはり一連の主犯である「尊師」麻原が事件の動機やその背景などの真相をほとんど語らないままに終わってしまったことへの批判や失望が多く語られていたが、実のところ以下からの一連のツイートがもっとも「真相」に近いのではないか。
松本智津夫の死刑執行。散々迷った挙げ句、やはり書いておくことにする。なぜ彼があんな支離滅裂な行動を取ったか、未だに答えらしきものはない。けれどかつての被虐待児の目を通すと、小さな糸口が見えてくる。そんなお話を。(勝手ながらTogetterなどのまとめにはしないでいただけると幸いです)
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年7月7日
この意見、意外に反論や反発が多いようだが、生育環境からのトラウマやルサンチマンが昂じて社会全般への憎悪を募らせ凶悪犯罪に至るというのはむしろ典型だし、少なくともロシアンマフィアとか統一教会とかそのほかの裏社会の陰謀などを憶測するよりはよほどリアリティがあるし納得もしやすい。もっとも、だからこそ麻原当人は決して「真相」を語ることはできなかったのだろう。彼にとっては偉大な最終解脱者であり救世主、あるいは恐るべき一大テロ組織の首魁、そして最悪にしても強欲かつ卑劣なエセ教祖にして詐欺師として罵られて終わることより「障害を抱えた貧しく無力な一介の青年そして子供のなれの果て」としての自分を認めることの方がよほどの屈辱であり恐怖だったのではないか。さらに言えばこのようなありのままの無力な自分を否定し拒絶することが彼のライフワークでありその結果としての一連の事件であったのだ。もっとも、そんな彼ひとりの手前勝手なトラウマなりルサンチマンなりの願望や妄想が肥大化した果ての暴走に巻き込まれた被害者たちにとってはひたすら不運であり不条理以外のなにものでもないが。
しかし、このオウム真理教とその一連の事件そのものが、数多のトラウマやルサンチマンの集積によって生じたものだと言える。オウムの活動時期である80年代後半から95年に至るまでの社会、バブル前後のひたすら加熱し爛熟する一方の経済や流行から疎外され、あるいは受け入れることができなかった人々、具体的には今ならばオタクとか非モテとか陰キャとか称されて陰に陽に揶揄されていたであろう若者たちこそがオウムの主体であったのだ。とんねるずやいわゆるビッグ3が君臨するバラエティやトレンディドラマを主体としたテレビメディア、ホイチョイプロダクションや課長だったころの『島耕作』が連載されていた出版社などが立て続けに描き広宣流布してくる流行や価値観、しかしその一方で激化する受験戦争や強化される管理教育、その中で校内暴力やいじめが蔓延しヤンキー文化が幅を利かせる中でずっと息を潜めながら、純然たる学問やオカルトやスピリチュアルなどの世界に精神の居場所や自我のよりどころを辛うじて求めつつ子供時代青年時代をやり過ごしてきた一部の青年たちにとって、片や地方の田舎町の極貧の家庭出身の障碍者という、これ以上無いほどに社会から疎外され底辺に追いやられたマイノリティでありながら強烈なバイタリティの持ち主であった麻原のような存在こそがむしろそんな積年のトラウマとルサンチマンを解放しうるのみならず、それらを具体的かつアグレッシブな力であり武器として変えてくれる強烈なヒーローであったのだ。麻原を一時のカリスマたらしめた源泉というのは、もちろん既存の宗教や占術やオカルト、スピリチュアルなどを無節操に継ぎはぎした教義などではなく、自分と相通じるトラウマとルサンチマンの持ち主たちに心身ともにサティアンという現実からのシェルターを現実に提供しうる現実的な資金力、企画力、実行力であった。
しかし、オウムが起こした一連の事件とその崩壊がもたらし知らしめたたものは、宗教はもちろんいわゆる社会へのアンチテーゼとしての思想なり教養なり文化なりの無力さである。彼らを「反体制」と「思想信条の自由」の名の下に支持し持て囃した(リベラルな)文化人や学者たちは一気に面目を失い、95年以降から現在に至るまで(新興)宗教の信者なんぞの扱いはもはやかつてのオタクどころではなく、世間的ヒエラルキーの埒外の存在であり犯罪予備軍のごとく見做されている。ちなみに、私などは大学入学当時から在学中にはオウムと競合するような団体の勧誘は頻繁に見かけたし実際にされたりもしたが、サークルの先輩たちからは新入生の時分から在籍時を通じてなぜか私にだけしきりに「お前はいつかあいつらに騙される」「お前はそのままだと絶対にああなるよ」とか忠告という名のいじりを繰り返されていたのがいまだに心外であり侮辱であり、それこそ多大なトラウマでありルサンチマンの一つである(実際、ならなかったのだし!)。
それはさておき、この手の微妙な社会不適応者というのはもちろん昭和平成の日本のみならず、古今東西を通じて常に存在している。しかし、少なくともこのオウム以後の社会に生きるそんな負け組たちにとっては思想や精神世界、まして宗教などはもはや自我のよりどころにも武器にもならない。ますます経済は衰退し、安定した職もこれまた安定して愛情とセックスを提供してくれるパートナーも持てない孤独な若者や中年たち。しかしそんな彼らが縋るところは、現実で「敗戦」という物語の中でトラウマとルサンチマンを共有できうる「国家」だったり、精神科医の処方する抗うつ剤だったり、あるいは高速バスを乗っ取って刃物を振り回したり繁華街にトラックごと突っ込んでいったり、これまた新幹線の中で包丁振り回したり、あるいはたまたま逆恨みしたブロガーを刺し殺したりとかいうような、極私的かつ局地的散発的な暴発でしかない。決してひとつの理想のもと、一人のカリスマやヒーローの元で団結し連帯して世界への革命に挑むというような幻想などまず持ち得ないし有り得ないことを彼らはすでに知っていて、それを決定的に完膚なきまでに証明し知らしめたのたのが他ならぬオウム真理教とその残党たちなのである。
結局、この現世にはこの自分を絶対的に丸ごとありのままを肯定し認め最期まで保護しそして愛してくれるような絶対的な力を持つ絶対的な存在など有り得ないし、求めてもいけないのだ。まして一人の偉大な超人なり天才なり最終解脱者なりが現れて、この世界の正邪も勝負も階級も一気にひっくり返り、この世の邪悪醜悪をことごとく亡ぼし焼き尽くし、誰にとっても苦痛や不条理のなにひとつ無い、理想のシャンバラなり美しい国なりが誕生するなどという奇跡なり審判なり革命なりハルマゲドンなど、この先も永劫起こりえないし何びとも起こせない。だからこそひとり一人が本当の意味での「知恵」と「力」そして精神を地道に身に付けて行くしかない。自分のトラウマもルサンチマンも乗り越え昇華しうるのは、ひとえに自分の知恵と精神の力しか有り得ない。そして、おそらく自分たちが望むような最高の良いことなど何一つ起こらず手に入ることもない、いかなる奇跡も希望も持ち得ない、この身も蓋もない邪悪醜悪や苦痛や不条理がのさばるこの現実の日常の生活の中まさに「平坦な戦場」の日々を地道にひたすら耐え抜いて、その間にわずかずつでも実のあること、善いこと、自分たちにとってのささやかな幸福を、満足を地道に積み重ねていくしかない。そして、それらの日々を、まさに自らの死の「執行」の時まで耐え抜き続ける知恵と力を与えてくれることこそが、まさに宗教なり芸術なり文学などの本来の役割であり存在意義だと切に思い、そして願うのだ。
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