2015年夏期のドラマ『ど根性ガエル』は色んな意味で、そして良い意味で視聴者の予想を裏切ってくれた作品だった(※以下、ネタバレ有りです)。
昭和の古き良き子供漫画、そしてアニメ名作として有名な『ど根性ガエル』をよりによって実写化、それも原作の時代から2015年の現在を舞台にそれぞれ成人したキャラクターたちの物語を描く……というコンセプトに、視聴者はみな少なからぬ不安とともにいくばくかの期待を抱き、そして放映が始まり進行するとともに、私も含めた大抵がこの物語の結末を次のように予想した。「平面ガエル」のピョン吉はいずれ死ぬか元の雨蛙に戻るかして主人公・ヒロシの元を去り、そしてその別れを通じてヒロシにも周囲の人々にも確実に何らかの変化が訪れ、そしてそれぞれに何かに対する決別を果たし、新たな人生そして日常を生きていくのだろう……と。ところが、果たして実際の最終回の展開は、そうした言わば凡百の予想のさらに裏をいくものだった。
振り返って見れば、90年代辺りは例えば『エヴァンゲリオン』などに象徴されるように「いい歳してアニメやマンガやらの予定調和の夢物語に逃げるな! 大人になって現実を見て生きろ!」といったようなスタンスから来るメタ視点や構造の作品がやたら流行っていたが、さらに時を経て2010年代も半ばに入って、一周回ってこのドラマのように、あらためて「予定調和の夢物語」、ファンタジーやフィクションのそれ自体が持つ意味、そして力を真っ向から肯定してみせる作品が出てくるようになったわけだ。そして、あらためて気付かされた。このドラマは青年ヒロシの(成長の)物語である以上にやはり、タイトル通りに「平面ガエルのピョン吉」の物語であったということに。
ピョン吉は、ストーリー当初にはいい歳をしてあまりに享楽的で衝動的で無目的、いつまで経っても無責任に思えるヒロシの有り様を見て、「おいらはヒロシの側にいない方がいいんじゃないか……?」という疑念を抱いてしまう。そして、その疑念は徐々に「おいらが(平面ガエルとして)この(人間)世界に居ていいんだろうか?」という不安に変わっていく。そもそも、「平面ガエル」という存在は文字通り「この世で一匹」、空前絶後のものであり、ピョン吉にとっては当然その行き方を共有し協力し合える仲間も、手本にすべき前例や規範も皆無だ。考えてみればこの上なく孤独な状況である。姿形も変わらず年も取らないし寿命もピョン吉自身にすら予想が付かない。それこそ「成長」しようがないし「大人」も「子供」も有り得ない。そして、ピョン吉は平面であるためにヒロシ達の助力なくしては単独での移動や食事も思うように上手くできなかったりする。実はヒロシ達の住む人間社会においては、ヒロシ以上に非生産的で無力な存在なのだ。彼の人間世界における存在意義、そして目的というのはもっぱらヒロシとの絆であり、彼の幸福を願うことのみだ。しかし、彼らとの絆は疑いようがないとしても、いや、それが揺るぎないものであればあるほど、自分の存在がヒロシにとってそれ以外の、それ以上の価値を与えられないどころか、むしろ妨げてしまうものだとしたら……まさにピョン吉のヒロシに、そして世界に対する己の存在意義、そして目的が揺らいでしまったのである。その(意識下の)迷いがおそらく「ヒロシのシャツから次第に剥がれていく」という変化に現れてしまったのだろう。
しかし、ヒロシにとってはピョン吉そして彼と過ごした時間というものは、間違いなくリアルな体験でありそれ自体にかけがえのない価値があり、たとえ自分が「大人」になろうが「子供」のままだろうが、ピョン吉は自分とは別個に生きて存在する唯一無二の生命であり個性であり、彼との絆、その価値は自分自身、そしてピョン吉の生き方や在り方とは独立して不変に存在しうるものなのだ。まして、ヒロシ自身が言うように決して己の子供時代の象徴とか、したがって「成長」の代償に捨て去らねばならぬものではなかったのだ。いや、たとえそうであったとしても、それでも自分は彼と一緒に居たい。お互いがどう変わろうが、お互いがお互いといるだけで楽しい、この場所で生きるのが楽しい。それは変わらない。だからいつまでも一緒に、同じこの場所、この世界で生きていきたい。理由も目的もそれだけで充分だ。というより、ほんらい存在する理由も意義もないのなら、それは他ならぬ自分の意志でいくらでも創り出せるし、決められるというわけだ。……その事に気付いたピョン吉はヒロシ達の住む人間世界へと回帰し、あらためて「平面ガエル」としての生を踏み出すことになる。
そして、それはそのまま、この世界にとっての人間の在り方にも相通じるのではなかろうか。この宇宙に生命が生まれその一種が人間として進化し存在する、それが神の意志なのかただの偶然に過ぎないのか、当の人間には計り知れない。まして、存在する意味や目的などは分からないし、何も無いのかもしれない。ならば、その意味や目的はそれぞれが自由に定義して、選んで生きていって構わないじゃないか。それらに正しいも間違いも優劣もない。ただ、その選択において、自分たちがそれぞれ納得して満足できれば良いのだ。なにも、わざわざ自分たちで自分の生の価値や意義を「こうあるべき」と決めつけて、それに縛り付けられて可能性や幸福を自ら狭めて減らしていくことはない……これはおそらく、ニーチェが言うところの「超人」の思想なのでは。
ニーチェの超人や永劫回帰の思想について、あまり理解できない… – Yahoo!知恵袋
(こちらの記事のベストアンサーがとても分かり易かった)
ニイチェは古代ギリシャの古典に対する知識が豊富でしたから、時間が今のように直線的でなく、円を描いて循環するものであり、人生も決して直線的に前に進むものではないことを知っていましたから、人生の「目的」だとか「意味」だとかに悩む近代人に対して、別の価値観もあるよ、と主張したのです。
そのギリシャの神・ディオニソスが、ニイチェのいう「超人」のことです。
人生がたとえ無意味であっても、それを肯定し、明るく、陽気に生きてゆく古代ギリシャ人、それがニイチェにとっての「超人」です。
悲劇の誕生
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ツァラトゥストラはこう言った
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かくして、ピョン吉は文字通りの「超人」として、ヒロシというディオニソス神とふたたび生を共にする選択をしたわけだ。蛙世界の視点で見てみれば、ピョン吉という超人的もとい超カエル的な力を授かった一匹の英雄が神々の世界で長い時間を跳び回り活躍し、やがてその力を失って下界に戻されるも(同じくおそらく「ど根性」で生き延びた)仲間たちの願いにより復活し、神々の意志によって新たに迎えられ永遠の英雄として再生する……というそれこそ神話めいた話になるのだろうが。
もちろん、それはなにも努力して「成長」しなくていい、「大人」になる必要はない、などということではない。存在そのものを認められるために、たとえば内なる「夢」や「子供」時代、それにまつわる何かを無理に否定したり捨てたりする必要はないし、まして、その代わりに何かの地位や資格(世間での承認とか社会的ステータスとか年収とか結婚とか子供の有る無しとか)を無理に獲得したりすることはない、ということなのだ。『ど根性ガエル』の世界でもこの先、梅さんとよし子先生が結婚しようがしまいが、町田先生が教師生活を終えようが終えるまいが、京子ちゃんが誰と結ばれようがあるいは誰とも結ばれなくても、ヒロシ達そして街の皆にとってかけがえのない存在であり、そして唯一無二の価値と尊厳を持った個人であることにはなんら変わりがない、ということだ。そして、ピョン吉が雨蛙として生きていた時間、世界でも仲間たちに愛され充分に幸せだったように、ピョン吉そして平面ガエルの存在し得ない現実世界で生きる我々、言わば数多の「ヒロシ」達にも彼らがそれぞれの生きる場所や目的を選ぶ自由があり、その場所や目的に関わらず唯一無二の存在であることには変わりなく、そんな己の存在に意義や価値を見いだし与えることができるのは、他ならぬ己自身の意志であり力なのである。
もっとも、やはり生きていく以上、それも「大人」として周囲の人間を守るためにはどうしても何らかの責任や義務を背負う必要があり、多くの障害や様々な困難は出てくるし、挫折や失望や迷いも何度も味わうだろう。しかし、それらをくぐり抜け乗り越え、そしてなお己の存在と生そのものを肯定する意欲こそが、まさにピョン吉そしてヒロシの言う「ど根性」なのだ。そしてその「ど根性」の大きな源のひとつとなるのが、その世界の人々との繋がり、そして、それこそドラマやマンガなどのフィクションも含めた様々な世界や存在から得られる指針であり希望であり、そして愛なのだろう。まさに、同じスタッフのドラマ『泣くな、はらちゃん』で描かれた「はらちゃん」の優しさは、このドラマではよりアグレッシブかつプリミティブな「ど根性」に形を変えたわけだ。そして、そのような優しさや「ど根性」によって、自分たちの存在する世界をより「望んで生きるに値する」ものに変えていくことがまさに「大人」の真の役割なのかもしれない。結局、 どんな世界にいて、どんな立場や属性であったとしても、どれだけ周囲に対してどれだけ愛や価値を提供できるか、ということなのではなかろうか。
現実世界、とりわけこの近年の日本ではいろいろ余裕が無くなってきているせいか、かえってより規範やら規制やらモラルやらあるべきステータスやらカーストやら自己責任やら、とにかく内外からの束縛、抑圧、要求、そして自縛や自虐、強迫等々が増えすぎてがんじがらめになり潰れかけている「大人」や、萎縮して「大人」になりきれず彷徨ったり引き籠もってしまう人々が目立つように感じる。だからこそ、このピョン吉とヒロシのコンビに象徴される他者への根源的な信頼や肯定、そして「ど根性」という名の理屈抜きの生そのものへの肯定と意志が必要なのだろう。そういうメッセージを語るのに、まさにこの『ど根性ガエル』という作品、そして「平面ガエル」というモチーフは最もふさわしいもので、決して単なる懐古趣味やウケ狙いではなかった、ということだ。