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(更新:2016年9月12日)

【感想・批評】『おそ松さん』の二つの「事変」松野一松編 —分身殺しの挫折そして救済—

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当ブログの前回の記事において、アニメ『おそ松さん』16話「一松事変」の(腐女子視点での)意味合いを六つ子の次男・カラ松を中心にして書いてみたが、今回はタイトル通りの主役である四男・一松について(腐女子的な視点から)総括してみたい。

【感想・批評】『おそ松さん』の二つの「事変」松野カラ松編 —ある問いと解答—

『おそ松さん』登場当初から個性豊かな六つ子の中でもひとり無気力で屈折したキャラクターとして異彩を放つ一松であるが、話数が進むにつれて兄弟たちの間や憧れの幼馴染みのトト子の前などではかなりノリの良い姿を見せたり、公共の場で脱糞未遂を起こしたり嬉々としてえげつない拷問をしたりSMもどきのプレイに興じたり、時には猫やら怪物やらあまつさえ神?やらに化けたりなど、さまざまに矛盾するような意外な面を見せつけるようになって困惑している視聴者も少なからずいるようだ。しかし、あらためて振り返れば彼の行動原理は常にどのシチュエーションでも一貫している。彼が普段見せているダウナーでシニカルな言動の裏で、実はしごく気弱で傷つくのを恐れるあまり他者との関わりを自ら遠ざけ一方でそのために猫や兄弟たちに著しく依存しているという「本音」が「エスパーニャンコ」のエピソードで明かされるが、彼の主立った行動というのは目下唯一のよすがである兄弟たちに対して自分の居場所を確保し、そのために彼らの期待なり願望なりにいつでも応えることを意識して自分が出来うる限りのあらゆる手段を講じる、という点においていずれも共通している。

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そして、一松の行動においてもう一つ一貫している要素がご存じの通り次兄のカラ松に対する異常な反感である。これについてはすでに2話の時点で、ひとり彼を「フォロー」する発言をしたカラ松に対していきなり胸ぐらを掴みかかるという描写が表れ、以降もこの二人の「対立」関係がストーリーにおける大きなモチーフの一つとして展開していくのだが、この関係について早くも重大な転機が訪れるのが、すでに前回の記事でも言及した5回の「カラ松事変」「エスパーニャンコ」の両エピソードである。これらはポジティヴなナルシスト・カラ松とネガティヴな自虐キャラ・一松という兄弟の中でも一見もっとも対照的な二名が、それぞれ図らずも外部からの介入者(チビ太とエスパーニャンコ)によって隠蔽してきたおのれの弱い本性をさらけ出され、あるいは向き合わざるを得なくなるという構造になっている。

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カラ松というキャラクターに対してはすでに4回までの様々なエピソードで「始終クールなナルシストを気取っているが実は小心で不器用なお人好しであり、しかしその本性を周囲には見透かされ持て余されていることに本人は気付いていない」という実態が明らかに示されていて、その結果として「事変」の展開と結末がある面においては当然の帰結として描かれるのだが、一方でそれに引き続く「エスパーニャンコ」では兄弟にすら「無口で何を考えているか分からない剣呑な人物」「一番行動が読めないジョーカー」と見なされていた一松の内面の一端が露わになる。デカパン博士と弟の十四松の計らいの結果、人間の本音を話せるようになってしまった彼の「親友」の猫によって逐一語られ漏れてくるそれは、まさに彼がもっとも兄弟に知られることを恐れ、ためにこれまで必死に覆い隠してきたものであることは、彼の直後のあからさまな動揺と激しい怒りによって明白になる。

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5話以前の一松は親兄弟の間で「突然キレたり親を脅したり上司を殺しかねない」危険な人物としておのれをアピールしてきた。そうしていれば元から兄弟からの期待を求められず、余計なプレッシャーを抱えずにすみ、かつ兄弟間においてはアンタッチャブルな存在としておのれのポジションを安全に確保、維持できるからだ。したがって例の2話の居酒屋の場面において、他の兄弟たちの彼に対するそうした共通見解に反したカラ松の「フォロー」発言に一松が憤激したのは当然だった。その時点での彼にとっては、皆の前で脳天気に「信じてるぜ」などと期待をうながすような発言をされるのはそれ自体が大きな重圧であるし、何より自分が自衛のために必死で形作ってきたキャラクターを脅かしかねない危険であり、しかも、それが自分がもっとも相容れない身内からのものとあっては大変な屈辱でもあったわけだ。

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しかし、その後一松は(十四松の助けもあって)自分の本音を暴露したエスパーニャンコと和解し、兄弟たちにそろって祝福され受け入れられる。しかも、片や彼がそれまで反感を抱き「事変」での誘拐失踪をあからさまに喜んだ相手であるカラ松は、満身創痍のあげく皆から終始放置されたまま終わる。この結末を俯瞰してみれば、兄弟たちがこの機に乗じて、そろってコミュニティ内で「対立」し緊張をもたらしていた当事者二人のうち結果として片方を選び承認し、片方を断罪し擬似的に追放したという図式を見出すことができる。彼らのコミュニティにおいて、脳天気にナルシシズムを振り回し無自覚にノイズをもたらしていたほうはおのずと断罪され、必死で自己を抑えてきたほうはその代償に皆に許容されたからである。しかも、エスパーニャンコの一件に立ち会うことができなかったカラ松は、この六つ子コミュニティの成員のうちではゆいいつ彼の「弱み」を知らずに終わる。つまり一松はこの時点でカラ松に対する圧倒的優位を得たのである。

だがこの後、一松は絶えず兄弟たち(カラ松除く)の「期待」に応え続けなければならなくなった。図らずも兄弟たちに「本音」言うなれば自分の弱みを知られ、それまでのアンタッチャブルとしてのポーズが(カラ松以外には)ほぼ無効になってしまったことで、かえって「本当の弱い自分」をあらためて封じ込めた上で、新たに別の形での虚勢でもって糊塗せざるをえない状況を招いてしまったのだ。そして、以降の彼は兄弟たちの暗黙の了解や総意に的確かつ過剰に反応し、その要望にあらゆる手段で極力対応していくといった行動が顕著になっていく。7話におけるトド松の兄たちへの一連の侮蔑発言と虚偽行為に対する抗議としての脱糞未遂、あるいは10話でのレンタル彼女詐欺によるイヤミとチビ太への報復などがその主たるものだろう。事実、とくに10話の結末において六つ子一同の総代としてイヤミチビ太の両名へ率先して極めて巧みかつ残忍な制裁を行う彼の姿は、自分たちが騙された屈辱やその下手人たちへの憤り以上に「真っ先に兄弟の役に立てる、目下ゆいいつ自分の持てる資質を存分に生かして存在意義を発揮できる」という充実と誇りからくる愉悦が少なからず滲み出ていたように感じる。

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しかし、その一方では、一松はひとりカラ松のみに対しては相変わらず辛辣な態度と攻撃性をあからさまに示していく。すでに5話の「事変」を経て彼の兄弟内での地位は確立したも同然であり、カラ松のとのヒエラルキーの差は歴然であるにも関わらずである。一松にとってカラ松個人に対する感情および態度というのは彼が常に意識している「六つ子コミュニティにおける自分の居場所を確保する」というプレッシャーからくる行動とはやや様相を異にしている。5話の「事変」後も度重なる冷遇や不遇にも拘わらず性懲りも無くナルシストな態度や独自の嗜好(主にファッション)による自己アピールを改めないカラ松の存在は、彼にとってはゆいいつの居場所、それを保証してくれるはずの兄弟たちの中では随一のノイズでありエアポケットであり続けるのみならず、万一かりに「他者の前で自分の願望や素の部分を無思慮無防備にさらけ出し、その上振る舞い方をあやまってしまった場合の最悪の実例」でもある。現にその結果と明暗は5話の「事変」においてすでに(一松自身の中で)はっきりと示されているのだ。

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いっぽう、それに平行して一松の性向として常時アピールされるのがやはり(科)への愛着ぶりである。このことは彼が2話の「おそ松の憂鬱」エピソードにおいて、路地裏でひそかに猫と戯れていたところを目撃した長兄のおそ松の目前で猫人間に変身してしまうという劇的な(ギャグ)シーンにおいて明示される(そして、彼がその性癖をおそ松含めた兄弟たちには極力触れられたくない、ということも暗示される)。彼にとって猫という存在は明らかに単なる「人間の友人の代用品」どころではない意味合いを持っている。5話の「エスパーニャンコ」において彼がラストで涙ぐんでまで喜んだ一番の理由も、実は「兄弟から理解と許しが得られたこと」ではなくて、「親友」であるニャンコとの和解が(十四松の助けで)果たせたからだ。

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一松みずから吐露していたように、言語による齟齬も有り得ず自分が傷つけられる心配もなく、何より責任や期待も背負わずに済む猫たちとの触れ合いは、彼がゆいいつ素の自分を安心してさらけ出せる貴重な領域である。そして、その一方ではカラ松に対する一連の彼の態度も、猫に対するそれとは真逆のベクトルではあるが、他の兄弟への配慮や思惑よりも主に彼自身の素の感情によって行われるところが大きい。いずれにせよ「カラ松」と「猫」、この二つの存在は、常に自己嫌悪からくる抑圧と自意識過剰に苛まれ、自縛に陥っている彼にとっては数少ない私的な感情を率直に解放できる領域であり、言うなれば、彼がもっぱら依存し頼りとする兄弟にすら触れられたくない「聖域」である。

(もっとも、他に一松のサンクチュアリ的存在には同じく5話で顕著になったように弟の十四松とその関係があり、こちらも別の側面で重要なのだがこの記事ではあえて置いておく)

一松はおそらく猫に対しては「ありのままに振る舞っていても受け入れられ愛される存在」と捉えており、そしてカラ松に対しては「身の程を知らず、無自覚にやりたいようにやっているがゆえに無様に皆から白眼視される」悪しき事例と観ている。前者は彼にとって羨望の理想の姿(しばしば自らがその姿を真似て変身してしまうほどに!)であり、後者はもっとも恐れているおのれの境遇であり有り様である。いわば、この二つの存在は彼にとってそれぞれ自己のポジとネガを投影した「分身」とも見なすことができる。たとえば一松がカラ松の目の前で自分に懐いている猫にその私物を壊させ、あるいは別の猫をけしかけて屋根の上から彼を転落させるなどの所行は、彼にとっては自らの(分身の)手による厭わしい「分身」殺しの儀式の一環ともみることができるのだ。

そして、15話「チビ太の花の命」において、ふたたび一松にとってのカラ松への認識、および自身の在り方が確立する。正体不明の醜女(フラワー)に翻弄されるカラ松を目の当たりにしてあるいは憤り、あるいは困惑する兄弟たちの中で、ひとり一松は醒めた態度で「ぽいわー、ぽい」などと呟きながら彼を見送る。一松はゆいいつカラ松の心理を深く理解し、しかし理解していたからこそ放置する。先ほどの「事変」をはじめとして、六つ子の世界の中でカラ松当人を率先して弾劾し、結果として彼を承認欲求に飢えさせる原因に大きく関わったのは他ならぬ自分であり、そしてなにより望むような兄弟からの好意や承認を獲得しそこねた場合に陥るであろう自身の末路だったからである。まさに15話は一松にとっても、カラ松という「悪しき分身」の破綻を追認し自分のこれまでの姿勢の正しさの再確認するという、5話の「事変」の再現であったのだ。ちなみに、この15話の終盤、チビ太の屋台の場面で彼は長男・おそ松と三男・チョロ松の間に座っている。これまでになかった六つ子間での席順であり、本来は次男・カラ松が座るのが自然な場所にである。もはや彼の「勝利」はこの時点で完全なものになったかに見えた。しかし、それは次回の16話「一松事変」において、他ならぬ一松自身の出来心、ある意味では慢心によって完膚なきまでに崩れ去ることになる。

「おそ松さん」15話B しんどい私が本当に欲しいものは何だったのかという話 – バックヤード 「おそ松さん」15話B しんどい私が本当に欲しいものは何だったのかという話 - バックヤード このエントリーをはてなブックマークに追加

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「一松事変」の冒頭、ソファで顔を背け毛布に完全にくるまって熟睡するカラ松を前に、一松は彼なりの厳戒態勢(猫耳出現)を取りつつもカラ松の「パーフェクトファッション」を身に付ける。おそらく1クール時点、それも5話以前の彼であったならまったく考えられなかった行動である。5話の事変と15話での騒動を経てのカラ松の敗北あるいは「死」を看過し確かめた上で、そしてまさにその「死体」を前にしてようやくその抜け殻を手に取り身に付けることで、自分に対して(そして視聴者に対して)も初めてそのひた隠しにしてきた嗜好を露わにすることができたわけだ。しかし、その途端に彼らの長兄にしてリーダーであるおそ松が入ってきたことで彼は一気に危機に陥る。そこからのかつてない彼のハイテンションかつ饒舌なモノローグに大半の視聴者は戸惑ったことだろう。ここに至ってまさに彼の真の本音、さらなる本性が明かされたわけで、これは5話の「事変」においてカラ松の素の姿と本音が露わにされたことと似通っている。そしていぶかりながらも彼を「カラ松」と見なしたおそ松の前で彼は「カラ松」を演じ続ける羽目に陥るのだが、早くも「正しいカラ松のやり方」に困惑することになる。まさにその「正しいカラ松」のキャラを率先して忌避してきたのは他ならぬ彼自身なのだから当然なのだが、むしろ彼は「カラ松」の仮面を被りその被膜を纏ったことで、皮肉にもおのれの本性と直面せざるを得ない状況に陥り、そして傍目にもそのありのままの自身の有り様を完全にさらけ出すこととなったのだ。

そんな一松に対して、おそ松は知ってか知らずか、彼の「親友」たる猫たちのために大切に隠してとっておいた供物であるにぼしを平然と盗み、彼の目の前で貪り喰らい、あまつさえ他の兄弟(一松が扮したカラ松)に嬉々として盛大に分け与えてしまう。それまでカラ松以外の兄弟には直接に暴力を振るうことがなかった彼が、二度もおそ松を全力で殴り倒し、内心にこれまでに無い憤怒を滾らせる。彼の聖域のうち一方が、他ならぬ彼が今までひたすら頼りにし依存し忠誠を捧げてきた兄弟、それもその筆頭である長男によって完膚なきまでに荒らされ否定されてしまったのだ。しかも、それに続く保身の果てに自分がゆいいつ兄弟以上に尊重し、また「素の自分」で接することのできる存在である猫の「親友」を失望させるはめになってしまう。自分の大切な相手の期待を裏切り信頼を損なうという、彼がもっとも恐れていた事態を自ら招いてしまったのだ。

それにさらに追い打ちを掛けて、カラ松の「痛い」はずのファッションを「今までバカにしてたけど、実は一回着てみたかった」といとも気楽にのたまうおそ松。その言葉についに一松は、もっとも否定したがっていたはずの本音を自身に対して認めざるを得なくなるのみならず、その本音を必死で隠しごまかしてきた自身の恐れや苦労が、ほとんど徒労であり自己欺瞞でしかなかったことを思い知らされるのである。これもまたカラ松にとっての「事変」の衝撃と対を為している。いずれもそれまでの自己および周囲に対する認識と周囲のそれとの疎隔を、自分がもっとも親しんできたはずの兄弟によって突きつけられるという構図である。

そして、そんな一松にとどめを刺すかのように、とうとうカラ松が目覚めてすべてを目撃してしまう。ついに進退窮まったかに思えた一松に対し、カラ松が取った行動こそは、彼にとってさらに信じがたく、もっとも受け入れがたいものであった。それはまさに彼が切り離しかけていたおのれの悪しき分身が、よりによっておのれの姿を取って対峙してみせるという事態である。

「おそ松さん」16話B しんどい私が見てこなかった現実の話 – バックヤード 「おそ松さん」16話B しんどい私が見てこなかった現実の話 - バックヤード このエントリーをはてなブックマークに追加

彼は元々、的確な状況判断のできる子です。自分が保身のために誰かを傷つけることのできる人間だということに気づいていたはずです。だからこそ自分を卑下してゴミとして生きていた。その問題は今彼の目の前に可視化して現れました。いままで、自覚をしているからこそ蓋をして、見ないようにしていた自分の姿が一気に晒された。

彼はこうして、自業自得の状況で退路を絶たれ、転落死しました。

しかし、それでは彼が落下した先に待っていたものは何だったのか。

それは真っ先に死んだ次男、カラ松でした。

カラ松がとっさに演じた一松の真似は一見、一松当人から見ても「下手すぎ」なものであったが、実はこれまでに一松が兄弟たちに向けてアピールし表向き認知されてきた「闇キャラ」ではなく、また「エスパーニャンコ」の時に証明され13話でトド松が指摘したような陰気なだけの凡人(「闇ゼロ」「ノーマル四男」)でもない、別の新たな一松のポジティヴな面を、それもかなり本質に近い要素を初めて提示したともいえる。この16話のアバンでも示されていたように、猫の姿を取っている時の彼こそがもっとも外界に対しての理想の形態であり願望なのだ。しかし、それは同時に一松がこれまでに心身を削って演じてきた自己防衛のための虚像の完全否定でもあった。少なくとも彼の兄弟に対する「闇キャラ」アピール、そして何よりカラ松当人に対する攻撃的姿勢が、肝心のカラ松に対してはほとんど通じていなかった、ということになるからだ。

「こいつだけは同類と思いたくない、思われたくない」その一心で一松はずっとカラ松を攻撃してきた。「どうして(俺と同じように)ちゃんと周りを見て皆に従えないのか」「なぜ(俺と同じような)クズである自分を平気で愛することができるのか」「なぜ何度も痛い目にあっても(俺がそうであるように)自分のやり方をあらためないのか」

しかし、カラ松のナルシシズム、そしてその一連のスタイルというのは実は一松の多分に自己防衛のためのそれとは真逆のものであった。カラ松の場合、実像や周囲の評価とは著しく乖離しているとはいえ、彼が常にアピールしている姿は紛れもなくおのれが心底から愛着を抱き、こうありたいと強く切に望みおのれにふさわしいと信じているものであったからだ。だからこそ、それが傍目には極めて滑稽で愚かしい振る舞いではあり、どれだけ 「イタい」と揶揄され否定されてもおのれの理想とする姿を演じ続けていたし、そして根底ではおのれの価値を信じ続けていた。そして、いくら周囲から思うような反応や好意が得られず、期待に応えられなくても、諦めることなくおのれの理解者を追い求め続けていた。そういうカラ松が、それまでの彼からは意外なまでの機転で一松を庇う行動に出たのは、目前で自分にとっても「パーフェクト」な姿をそのまま(危険を冒してまで)纏った弟が、意図はどうあれ自分の同類であり理解者でありうると判断できたからだ。その上、一松当人に対してもその思いを表し、しかもそれを自分たちだけの秘密にすると明白にしたも同然の態度である。

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こうして、一松はとうとうまさしく「殺された」のだ。傍目にも同類と見なされるくらいなら文字通り死ぬしかないというほどの存在が、それでも紛う方なきおのれの分身であることを真っ向から受け入れなければならないという事実。さらに、よりによってその当人から救いの手を実にあっさり差し伸べられ、最悪の形で借りを作ってしまったという結果。そして、それらがすべて自業自得で招いた結末であるということ。しかし、その当の相手は自分に恩を売るどころか、そもそも「助けた」という自覚すらない! もはや彼がカラ松に、そして自分自身に対して延々と築き上げてきたプライド、砦は完全に陥落した。

これらの事態を鑑みれば、オチでカラ松が被せられた「ゲイ」の濡れ衣などは文字通りのほんの些細な瑕瑾でしかない。一松がおそ松の目の前で泣き崩れ(るふりをし)ながら、しかし、それまで面と向かってはまともに名前を呼んでやることすらなかった次兄に対して「やめてよカラ松兄さん……」と呟いたことは、傍目にはもちろんカラ松に対しては保身のための裏切りであるが、一松自身にとってはカラ松に、そして長兄に対しての事実上の完全な敗北宣言だった。5話の事変において彼が兄弟を前に「カラ松って誰?」と事も無げにうそぶいた問いに対して、ようやくこの16話に至ってもっとも強烈で寸毫の逃げ場のない形でその答えを突きつけられ、そしてその事実を本人や他の兄弟の前でも認めざるを得なくなったのだ。「この男は俺にもっとも近しい兄だ。そして、もう一人の俺だ」。やはり自分が忌み嫌うと同時に、自分が望み理想とするもう一方の姿もたしかにこの次兄の中にあったからだ。もちろん表面のカッコ付けの振る舞いやファッションではなく、その精神の根底に通じるものが、である。

カラ松と一松はどこか似ている – お粗末さまでした カラ松と一松はどこか似ている - お粗末さまでした このエントリーをはてなブックマークに追加
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もっとも、そのことを一松がカラ松本人にも周囲にも伝えることは今後もまず有り得ないだろうし、先の記事にも述べたように、この二人の関係がそれほど進展するようには見受けられない(基本は一話完結のギャグアニメであるし)。おそらく彼らの叩き叩かれの構図はこのアニメの最後までお約束として繰り返されるだろう。それでも、ひとつ言えることは、これからも一松という人間の存在およびいかなる所業にも、彼の次兄は心底から恐怖したり「事変」の時のように完全に「殺される」ことはないだろう、ということだ。思い返せば、自分に胸ぐらを捕まれて涙目になってもその後には酔い潰れた自分を背負って帰るのはこの兄であり、普段どれだけ悪態をつかれても夜になれば傍らで眠るのはこの兄である。少なくとも一松の視界そして生きる世界からこの兄はどう足掻いても消すことはできない。事実、彼がたとえ何度この兄を「殺し」ても、その兄亡き後の世界ではなぜか彼は生きることはできず、結局ほどなく後を追うはめになる(8話の「なごみ探偵」および18話の主役争奪戦での世界、そして見方によっては5話通じての顛末など)。そして現実には殺したり死んだはずの当の兄はしぶとく繰り返し臆面も無く、そして何ら変わることなく舞い戻って来るわけだ。

そして、カラ松にとっても一松は図らずもその目を開かせる存在である。ともするとナルシシズムの世界に完結し浸りがちなカラ松に対して、意図や手段はどうあれ刺激して現実に引き戻す役回りをおのずと一松は果たしている。これまで観た限り兄弟に対してもサングラスやカラコン着用だったりキメ顔やあさっての方向にポーズを付けて話したがるカラ松に対して、たとえ強引にでもまともに自ら顔を向けさせ直に見据え視線を合わせて感情を伝えようとするのは一松だ。

ともかくも確実なのは、この松野家の六つ子たちの中でもさらなる因縁のこの兄弟ふたりは、それでもお互いにとっては互いの存在そのものによって、おそらく互いがもっとも恐れている「孤独」からはすでに救われている、ということだ。そのことをとりわけこの一松の方が気づき受け入れることができれば、彼の人生も世界も劇的に変わり、真の救済はより近づくと私は信じているのだ。

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