10月 132020
 
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該当作品のネタバレを含みます。

該当作品が本当に好き、という方々にとっては極めて不快な見解が含まれているので、閲覧はおすすめしません。

 

以前に当ブログに吉田秋生『詩歌川百景』第一話に対する(ネガティヴ)な感想を書いた記事を掲載したが、それは以下のような文で締めくくっている。

もちろん、今後のこの『詩歌川』のストーリーが進むにつれて、ヒロインの母親側の視点や内面そして祖母の側の苦悩や欠落などにもゆくゆくスポットを当て掘り下げていくような展開にでもなってくれれば、私などのこうしたモヤモヤは雲散霧消し、これまでに書き連ねた駄文などはいっさい無用のものとなるわけだ。そして、この『詩歌川百景』がそうした新たな視点とテーマを描いてくれる物語になってくれることを切に願いつつ見守っていきたい。

というわけで、もう少し気長に見守っていこうと思いつつ、先日に発売された第1巻を続いて読んだわけであるが……正直なところ、もうこの時点で違和感どころか完全に不快そして怒りを禁じ得ないという段階に遂に達してしまったので、異論反論は承知の上でそれらの主な部分をいっぺん吐き出させてもらう。

まず、この巻において最大の突っ込みどころというか正直あぜんとしたところは、第3話「美女は野獣」において、主人公で旅館「あづまや」従業員の和樹が弟の窃盗疑惑について大女将の娘である女将(ヒロイン・妙の伯母)と妙の母親に呼び出され事情を聞かれるエピソードである。この下り、女将と妙の母の行動が大女将からも妙からもひたすら酷く愚かしい所業のように執拗に激しく責められて非難されているのだが、実情として接客業それも老舗の旅館をそれも噂の広まりやすい狭い観光頼みの田舎町で経営しているという立場で、雇用主として従業員の素性や身辺について神経質になるのはやむを得ないことだろうし、さらには一従業員の私的な事情や都合よりも利用客の安全や風評被害を優先して懸念するのは旅館や接客業に限らず一経営者としては相応に妥当な判断にみえるしそれほど糾弾されるような酷い対応や判断とは思えない。しかも実際にかなり黒に近い盗難疑惑が身近で持ち上がっているという状況である。むしろ、それこそ大した根拠も証拠もなくいきなり一方的に「パワハラだ」とか「辞めさせる気だろう」とか決めつけて、しかもこの件には実際にまったく無関係な未成年の臨時バイトの分際で盗聴をやらかし、しかもそれをネタに言わば上司にして実の母親と伯母に脅迫まがいの圧力を掛ける妙のやり口の方がはるかにドン引きだし実に腹立たしい。その上、大女将もそんな孫娘の行為と態度を上司そして祖母として諫めるどころか、寄りにもよって口裏合わせの隠蔽工作をやらかしたうえで、娘たちそれも一人は歴とした女将という立場の二人をひたすら「バカ娘」と断罪し痛罵するという、まさにこちらのやり口の方がよほど経営者として社会人として、そして一人の親として甚だ横暴でまったく配慮に欠ける行為ではないのか!?これらの妙と大女将の所業が作中の誰からも批判や苦言めいたものがないどころか、主人公の和樹の口を借りて畏怖すべきだが正義の行為として描かれて締められていることに、不快や怒りを通り越してただただこちらの感覚や常識めいたものとのあまりの乖離に驚愕したというのが偽らざる感想である。

だいたい、和樹当人や和樹の境遇に同情する友人たち知人たちそして和樹に感情移入している読者などからはともかく、彼や彼らにまったく関わりも知識もないごく一般の他人などから観たとすれば、およそ大女将が以上の件でしたことというのは、自分と自分のお気に入りの孫娘が贔屓している一介の従業員とその身内を完全な私情と独断のみで擁護し、その身内がやらかした(疑いの濃厚な)犯罪を自身の権力と人脈でもって隠蔽し、しかも曲がりなりにも経営側としての判断と職務上の権限を行使したにすぎない管理職の部下そして娘たちの意志と面目を否定してズタズタに潰すという、そのまま同族経営の横暴なワンマン会長のやり口である。加えてその威を借りた孫の臨時バイトは、これまた和樹の弟の窃盗の噂を流したらしい(これもまた確たる証拠があるわけではない)近所の知人男性へ要らん皮肉をかます。べつにとくに迷惑行為をやらかしているわけではない単なる常連客に対して、ただ個人的に気に食わないというだけで陰険な対応をやらかす従業員の方がよほど経営上の実害をもたらしかねないと私には思えてならないのだが、目下、これらの彼女たちの所業について大方の読者たちが何らの反発や憤慨を示していないどころか、まったく問題にされることなく「瑞々しく繊細で切ない感動の人間ドラマ」として受け入れられ賞賛されている事態に対して、私などは尋常ならざる衝撃と底知れない不安と恐怖すら感じているところである。

 だいたい、出戻りの妙の母親はともかくとしても伯母の方は「向いていない」ながらも歴とした女将として、早くに夫を亡くしてからもまだ幼い息子を育てつつ、相応の不安や苦労も抱えつつ曲がりなりにも務めてきたはずである。そんな彼女たちが現在やらかした「女将として相応しからざる所業」らしきもので目下わかっていることといえば、アメニティの選択やフロントに飾る生花のセンスが大女将の意に沿わなかったことと、大女将お気にの訳ありな従業員に対して旅館経営者として妥当と思われる範囲内で事情の説明を求めた、ということぐらいしかないのだ。それだけの情報しかない状態で、彼女たちを「主人公やヒロインを困らせ傷つけるダメな母親、自分勝手な女」として見なしてヒロインに感情移入するどころか、私などはもっぱら困惑そしてヒロインや祖母に対しての嫌悪感が募る一方なのだが。確かに妙の母親も伯母も老舗旅館を切り盛りする技量や適性にはあまり恵まれてはいないのだろう、とは思われる。しかしそれはたまたま生まれついた実家の家業に不運にも「向いていなかった」という以上のものではない。しかし、大女将である彼女たちの実の母親は、まさにそのおのが家業への技量の不足をもって、おのが実の娘たちを「立派に成長しなかった子」と断じてその全てを否定し、周囲の年寄り連中もそれに同調して「子育てっていうのは難しいわね」「子育てなんてしょせん思い通りにならない」とかあっさり宣って彼女たちの不出来をただ揶揄するだけである。確かにそういうものだとしても、「自分は女将としては成果を上げられたけれど、あの子たちの母親としては至らないところがあったかもしれない、頑張ってきたけれども間違ったことをやってしまったのかもしれない」とか少しは顧みても良さそうなものだが!率直に観て、上掲の件も含めて彼女たちの母が「大女将」としてやらかした娘たちの扱いをみても、彼女が「母親」としても娘たちに対していかに独善的かつ一方的な態度で育ててきたかはおよそ検討はつくのだが。娘たちが内心で母親への反発や反感を育み、たとえ拙くとも母親と違ったパーソナリティや感性を持つに至ったのはむしろ必然の結果であろう。しかし結局、大女将たちが辿り着いた結論というのは、もっぱら自分たちを尊重してくれる、自分が労せずして得られた従順で出来が良い孫たちを自分の誉れとして称揚し溺愛し、片や自ら育てたはずの意に沿わない娘たちは「生まれつき不出来な、私に相応しくないハズレの子」として存在そのものを否定し、自らの親として有り得た欠落や責任からは目を背け否定しようとしているのだ。

さらには、こうした大女将たち、そしてその歪な分身というべきヒロイン・妙の娘たちあるいはおのが母親たちへの態度というのは、実はそうした構造を肯定し自らの物語に組み入れた作者についてそのまま当てはまっている。この『詩歌川百景』でまた顕著なのが、前作『海街Diary』に登場した和樹の母親・陽子のその後についての描写である。確かに、男に依存し続けあげくに息子たちの放棄やネグレクトに陥りついに養父母に絶縁され消息不明……という顛末はひとえに本人の責任であり因果応報ではある。しかし、私などから見れば、前作の冒頭に登場するだけの、主人公たちに対してとりわけ大した悪事や悪意があったわけではない、端的に言えば本来は主人公・すずが異母姉たちと同居するきっかけをもたらすための装置にすぎない程度のキャラを、わざわざ次作でも繰り返し取り上げ、執拗により貶めるようなエピソードを追加する必然があったとはどうしても思えない。当作での主人公・和樹の厳しい境遇や苦悩を際だたせる、親子の断絶と葛藤というテーマを強調するための必然という以上の悪意をどうしても感じてしまう。自業自得とはいえ夫や交際相手からの暴力を受け続け息子たちと引き離され肉親から見捨てられ、現在はおそらく悲惨極まりない状況に陥っているであろう……というひとりの女性をひとつの世界にあえて作り上げておいて、その上で同じくその世界に作られた人間たちがこぞってさらなる嫌悪や断罪や軽侮あるいは無関心をそのひとりの女性に対して重ねていく……という手法は、はっきり言っていじめの構造そしてDV加害者の思考そのものとどうしても重なって見えてしまう。その上、一方では同じく実の子供たちを捨てて再婚を繰り返したというひとりの男は、みずから捨てた娘たちからも継子からもそして赤の他人の住民たちからも許され慕われ続けているという設定!片や「実の息子からも見捨てられるような最低の、何の取り柄もない最低のダメ女」というレッテルの元に(作者による)悪意のスケープゴートに仕立てられ、片や同様の罪も落ち度も欠陥もすべて無きがごとくにされて許され擁護され続ける……という図式に対して現実の読者たちも、なんらの公平性や客観性も欠如した極めて歪んだものであると感じられず、その世界を「優れた美しい物語」としてのみ受容し続けるならば、その人たちも属する世界もまた何らかの歪みに無自覚に侵されているはずだと私は断じる。

以上、とにかく私としてはこの作品からは、やはりどうしても作者の持つ(無自覚な)ある種の悪意や病理を否定し看過することがもはやできなくなってしまった、という結論である。もっとも、その悪意や病理というものはこの私の中にも別の種類や形で存在していて、それを否応なしに刺激してくる、というのが実際なのかもしれない。しかし、それでもこの作品そして物語そして世界に対して、肯定や称揚や賛美ばかりが溢れ、わずかでも違和感や苦言、なにより怒りや恐怖を訴える者が私以外に現れないならば、この世界の方が明らかにその病理や悪意に極めて許しがたいほどに鈍感であるかあえて黙殺しようとしているもので、ならばなおさらこの私の、この作品に対する憤りと恐怖をあらためて訴え主張していかねばならぬと決意するものである。

 

 

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